国家の壁と私たち

 昨日ここに書いたGoogleAdSenseの例ほど先端的ではなくても、近年の僕たちの経済活動(ほんのちょっとした買い物も含めて)は、「国家の壁」を知らず知らずのうちに越えてしまっているケースが数多い。
 その代表的な例の一つが海外旅行。日本人(特に女性)は、とかく海外でのお買い物が大好き。高級ブランド品はもとより、「かわいい!」のノリでつい買ってしまう雑貨類など、日本国民が海外で購入して持ち帰ってくるお土産(自分向けがほとんど)、金額換算するとバカにならない規模になっているはず。でもこれ、よく考えてみると貿易統計の「輸入」にはカウントされていません(税関で申告しなければいけないほど大量の買い物をしたケースは除く)。国家の管理の及ばぬところで、塵も積もれば山となる方式で大量の輸入が行なわれているわけです。
 国家の目が届かない最たる例は、インターネット上で海外からソフトウェア等の無形物をクレジットで購入するケース。もちろん、海外のエッチな有料サイトの会員になるという経済行動も・・・。クレジット会社が外貨を決済する際に資金移動は生じますが、それが何の対価であったのか、国家には知る術がありません。このあたりt統計に関する詳しいことは僕も知りません。どなたか経済産業省にお勤めの方でもいらっしゃればいいのですが・・・。(ここまでに書いた内容については、「President 2006.4.3号」に掲載の大前研一氏の連載「日本のカラクリ 〜ゼロ金利の功罪〜」を参考にしています。)


 「別に国が知らなくたって構わないじゃん」という話なのかもしれませんが、コトはそんなに単純ではありません。政府や中央銀行は、そうした「目の届かない経済活動」については知らん振りをして作られた統計数字を元に、「それ金融緩和だ!」「やれ円買い介入だ!」「うりゃ公共事業だ!」と財政金融政策を発動してしまうわけですから、あながち僕たちの生活に無関係とも言えない。
 コンサルタントが使う言葉に、「garbage in, garbage out」というのがあるそうです。「ゴミ(間違った情報・意味のない情報)をもとに作られた分析は、ゴミ(間違った結論)しか生まない」の意。とすると、間違った統計から生み出された政策は、所詮間違っている、ということにもなりかねない。
 国家の壁を意識しない経済活動は、いずれ国家の役割に対する厳しい問いかけを僕たちに突きつけることになるはずです。ミルトン・フリードマン教授が名著「選択の自由」の中で訴えたような社会こそ、ボーダーレス時代にはふさわしい、そんな気がしてなりません。

選択の自由―自立社会への挑戦 (日経ビジネス人文庫)

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