悪と戦う

大学時代のゼミの友人きみちゃんから薦めてもらった高橋源一郎「悪と戦う」を読みました。

「悪」と戦う

「悪」と戦う

1歳半で目的語までついた立派な会話ができるようになった兄の「ランちゃん」。一方の弟「キィちゃん」は1歳半を過ぎても「だっだっだ」とか「どん!」とかいった言葉しか話さない。「パパ」も「ママ」もなし。でも、兄の「ランちゃん」は弟の言いたいことがなぜかすべてわかってしまう。そんな不思議な兄弟と、近所に住む女の子「ミアちゃん」が繰り広げるストーリー。
親の目線で読み進めていくと心が苦しくなるような場面も出てくるのだけれど、独特の軽快なタッチで綴られた文章はそんなグロテスクさを少し緩和してくれる。読み終わった後に、何とも言えない心に「ピトリ」と貼りつくような何かを残していく。そんな小説でした。
Kazuteru Kodera

 クオンタム・ファミリーズ読了

先日少しご紹介した東浩紀「クオンタム・ファミリーズ」を読了しました。いくつか心に残った表現を抜粋します。

ぼくは考えた。ひとの生は、なしとげたこと、これからなしとげられるであろうことだけではなく、決してなしとげられなかったが、しかしなしとげられる<かもしれなかった>ことにも満たされている。生きるとは、なしとげられるはずのことの一部をなしとげたことに変え、残りをすべてなしとげられる<かもsれなかった>ことに押し込める、そんな作業の連続だ。ある職業を選べば別の職業は選べないし、あるひとと結婚すれば別のひととは結婚できない。直接法過去と直接法未来の総和は確実に減少し、仮定法過去の総和がその分増えていく。(P28)

ゲームのプレイヤーは、それがゲームであることを忘れたときにもっとも強くなれる。(P95)

「そうさ。だからいま暴力に意味があるとすれば、それは現実を変えるからじゃない。暴力の意味は、言葉にはまだ力があると人々に錯覚させる、その一瞬のスペクタクルのなかにしか存在しない。言葉には力がない。意味すらない。しかし、特定の言葉で暴力が生み出され、ひとがばたばたと死ぬとすれば、そのあいだは関心をもたざるをえないだろう?二一世紀の言葉は、もはやそのようにして生き残るしかない。思想や文学はテロに寄生して生き残るしかない。ぼくたちの時代においては、テロこそが最良の、そして唯一の啓蒙手段なんだよ。」(P181)

Kazuteru Kodera

 ITは鉄道や電力のようなインフラになるのか

大学院の科目で「経営情報システム」というのがあります。組織の経営におけるITの役割とその戦略的活用方法を学ぶという趣旨。そこでこんなテキストが取り上げられており、試験前日の今日になって読みました。これがけっこう興味深い内容。

ITにお金を使うのは、もうおやめなさい ハーバード・ビジネススクール・プレス (Harvard business school press)

ITにお金を使うのは、もうおやめなさい ハーバード・ビジネススクール・プレス (Harvard business school press)

Does IT Matter? というのが原題です。日本語に直訳すると「それって意味あるの?」といった感じでしょうか。IT(イット)とIT(アイティー)をかけて、情報技術(IT)の重要性に疑問を投げかける面白いタイトルの本です。
ITはもはや鉄道や電力網と同じようにインフラ技術となっており、それにいかにお金を突っ込んで(投資して)も企業としての競争力強化や差別化にはつながらない、というのが著者の主張。どんなに頑張ってITを強化したって大した意味はないのだから、企業のIT戦略をつかさどるCIOは、ITによる差別化や競争優位の確立を考えるのではなく、まずそのリスクを抑えることにフォーカスすべきだ、という論理展開になっています。
その背景にあるのが、ITは「コモディティ化」しているという議論。つまり、水道や電力や鉄道などと同じように、ITは企業にとって「誰でもが安価に手に入れられる存在」になっているという考え方です。誰でも入手できるので、それを手に入れたからといって競合との差別化にはならないし、有利な立場に立つこともできない、と。
もちろん、新しい技術を先行導入すれば一時的な優位にはつながる。けれど、それはあくまでも「一時的」なもの。すぐにそのIT技術はコピーされ、より安価に、かつ安定した形で世の中に普及していくというのがITの宿命だと著者は言っています。なぜなら、近年のITはハードもソフトも複雑化・高度化しており、ベンダー(メーカー)側は少しでも多くの顧客にそれを使ってもらわないと初期投資をペイすることができない。ITはそれ自体、共有化(多くの企業で使われること)を望む存在なのだ、と。
少し前に出された本ですから、現在のようなASPSaaSクラウドといった新しいサービスの出現を前提に書かれたものではないと思います。しかし、上記のような傾向は近年のクラウド化などによってより強まっていると見ることもできます。かつては自前で巨額の投資を行って構築するものであったシステムが、月額利用料○○円といった形で安価に、しかもハードウェア(端末など)を購入することなくブラウザだけで利用できてしまうクラウド。企業の規模や資金力の差によるIT活用度の差異というのは、日に日に縮まっているというのが実感です。これから先、さらにITはWebを中心としてコモディティ化の流れを突っ走っていくことになるのでしょうか。
最近注目を集めているUSTREAMを活用すると、個人があたかもテレビ局であるかのように、全世界に中継を流すことができてしまいます。テレビ局が莫大な機材投資をして作ってきた「ブロードキャスト」という牙城を、個人がPC一台あるいはiPhone一台であっさりと代替してしまうことができる。まさに「コモディティ化の時代」ですね。
Kazuteru Kodera

 育児は母親の仕事か

ヨメが面白い本を買いました。強く薦められて僕も読んでみました。

経産省の山田課長補佐、ただいま育休中 (文春文庫)

経産省の山田課長補佐、ただいま育休中 (文春文庫)

経済産業省のキャリア官僚である山田課長補佐が、育児休暇をとって子育てをした際の体験を綴ったもの。男性が育児に取り組む姿と心の描写がリアリティ溢れ、楽しく読めると同時に考えさせられるところも多い一冊です。
双子の兄妹をすでに持つ山田夫妻、3人目の男の子が生まれたとき、今回は奥さん(同じくキャリア官僚)ではなくダンナさんである山田課長補佐が育児休暇を取ることを決めます。双子の育児休暇から復帰して間もない奥さんは仕事がピークの時期で、休みたくない。一方のダンナさんは仕事の都合がつけられたのと、何より育児を自らしたいという意欲があった。
そこから、彼の「母親にできて父親にできないことは『おっぱい』だけ」という信念にもとづく育児が始まります。
朝ごはんの支度をし、上の兄妹を保育園に送り届け、妻を送り出し、家の片づけや掃除をしながら赤ちゃんのミルクや寝かしつけ。夕方には買い物に夕食の準備、保育園のお迎え。保育園のスタッフにも最初は怪訝な顔で見られ、周囲の母親とも打ち解けられず苦労しながらも、次第に「育児パパ」としての充実感や感動に目覚めていく。そんな様が軽妙なタッチで描かれています。
そんな中で山田課長補佐に突きつけられたのは、「育児は母親がするもの」という社会の固定観念でした。同僚からは「一日中いったい何してるの?」と好奇と勘違い(育児をしていたら暇なんてない)に満ちた質問を投げかけられ、「出世は大丈夫か?」と心配され、保健士からは「お父さんが育児してるの?」と何度も確認され・・・。
「最後は母親には勝てない」とは世間でよく言われる男性からの諦めの言葉ですが、彼はとうとう「パパと寝る!」といった子供たちからの愛情を勝ち取っていきます。子供にとって必要なのは、必ずしも「母親」ではなく、きちんとそばで接してくれる愛情ある親の姿(父か母かは関係ない)なのだということを、実体験の中から紡ぎだしていった山田課長補佐。育児休暇をとって本当によかった、と振り返っています。
Kazuteru Kodera

 野村監督の55年

楽天イーグルスの監督を辞し、55年に及ぶユニフォーム生活を終えた(とご本人は書いています)野村克也氏の著作を久しぶりに読みました。彼が55年のユニフォーム生活の最後に記した一冊。

タイトルから楽天球団批判のための本かと思われる向きもあるかと思いますが、そうした記述はほんの一部。大半は彼の人材育成論・組織強化論にあてられています。また、楽天イーグルスが2009年にレギュラーシーズン2位という快挙を成し遂げた背景にある事実と、そして日本シリーズ進出を果たせなかったことに対する真摯な反省も綴られています。
彼の人材育成に対する「思い」はとても温かく、そして深い。単に優秀なプロ野球選手を育てるのではなく、その選手が選手生活を全うした後の長い人生をいかに豊かに充実させていくかということに焦点を当て、一個の人間として確立するためには何が必要なのかを軸に人を育てていく。
そんな野村監督が最も重視するのは、「人生について考えなさい、ということ。野球人である前に一人の人間だよ、と。

自分がどのようい生きていくのか考えれば、心が変わる。心が変われば態度が変わる。態度が変われば行動が変わる。行動が変われば習慣が変わる。習慣が変われば人格が変わる。人格が変われば運命が変わる。運命が変われば人生が変わるのである。
したがって、人間として成長しなければ、技術的成長はない。

また、選手の妥協についても厳しく戒めています。プロ野球選手の中には、プロになることを夢として頑張ってきた人が多いだけに、プロに入ったことである種の満足をしてしまい、壁に当たると「もういいか」と自分に妥協してしまうことがあるのだ、と。

選手たちには、「軽々しく限界という言葉を口にするな」とも言い続けた。伸び悩んでいる選手には、共通点がある。自己限定をしているのである。
「これで精一杯です。」「もう限界です。」「これ位やればいいか。」口にしなくても、そう考えている選手はじつに多いのだ。その選手にはまだ眠っている才能があるのかもしれないのに、「限界だ」と感じているらしいのである。
それでは伸びるものも伸びなくなってしまう。

このブログでも前に書きましたが、自分の可能性は無限大であるとまず決める、という態度。僕自身も大いに共感するものがありました。
Kazuteru Kodera

キャラクターというもの

またしても落語関連の本。先日のエントリーと同じ著者による著作です。

落語論 (講談社現代新書)

落語論 (講談社現代新書)

冒頭に、「キャラクター」というものを個人に結び付けて固定化する現代の風潮への疑問が呈されています。

全ての人がそれぞれ独自の「キャラクター」だけを持ってるというのは幻想だ。キャラクターというのは、常に一方向で表される。「怒りんぼ」はいつだって怒りやすい人であり、「陽気で社交的」な人は常に外向きであるとされる。その反対の性向を持つことはなく、ぶれることはない。そのほかの性格部分は無視されている。(中略)
もちろん幻想だ。幻想だから、統一性が高い。人に異様な統一性が生まれる。優れた軍人のように、常にやることが終始一貫している。統一性の高い存在は、もはや人間ではない。

現実の世界であれ虚構の世界(落語や小説など)であれ、人間のキャラクターが一貫性を持って固定化されている方が確かにわかりやすい。「あの人はこういう人」といったん定義づけてしまえば、ストーリーとしても整理できるし混乱がない。しかし、「わかりやすいものだけが人の世ではない」と著者は言います。落語の世界においても、演者によっては登場人物のキャラクターを固定して噺を進めていく人がいるけれど、本来の落語はそういうものではなく、「厄介な存在である人間」すなわち簡単には類型化できない人間を表現するのが落語である、と。
私たちも現実の世界において、やはり同じように人をキャラクターと結びつけて固定化している面があることは否めません。本人もまた、周囲の人から期待されている「自分のキャラ」を演じ続けることで周囲との関係を維持していくという側面がある。必ずしもそうした行動すべてが悪いと言うことはできないけれど、過剰に周囲からの期待に自身を合わせていくことは、私たちにとってストレスにつながります。
「こういう人になりたい」「私はこうあるべきだ」というロールモデルを設定して、そのキャラクターに自身をマッチさせようと努力することで人が成長することはよくあります。言い換えれば、自己成長のプロセスというのはそういうものだとも言えます。目標を設定して、それに向かって自己を矯正していくプロセス。ただ、それはいつでも内発的であるべきで、周囲からの期待を出発点にすることは危険な旅路の始まりであるという気がします。
また、そうしたロールモデル設定と目標地点へのあくなき自己改革というのは、徹底的にやってしまうと疲れるものです。この本の著者が言う落語の世界に描かれているように、キャラクターだけでは括れない「厄介な存在」である自分をまずは認識して、のんびりと成長の旅路を歩んでいければいいのでは、と私などは思ってしまいます。

 名前とアイデンティティ

体調が悪く家で寝ていないといけない日々が何日が続いたとき、ヨメからの提案で落語を聴き始めました。DVDを見るっていうのも候補にはあったのですが、「目が疲れると体全体が疲れる」ということで。不思議と「耳」は疲れないものですからね。
そんなふとしたきっかけから聴き始めた落語ですが、実はけっこうハマりそうな予感がしています。もともと歴史やら昔の社会風俗やらに興味のある身、噺の中で語られる世界を想像しながら聴き入っていると、落語が描き出す世界の面白さについ引き込まれていってしまいます。まだ偉そうなことを言えるほど聴いたわけでも勉強したわけでもないですし、ライブで聴いたわけでもないですが。
今は便利になったもので、iTunesのオーディオブックで昭和の名人と言われた噺家さんたちの落語を聴くことができます。ライブで見なきゃあダメだという人もいるけれど、こちらは寝てるんだから仕方ない。まずは耳からスタートです。

落語の国からのぞいてみれば (講談社現代新書)

落語の国からのぞいてみれば (講談社現代新書)

こんな本を読み始めました。落語の世界に描かれた江戸期の日本と現代の日本とを見比べてみたら?というお話。エッセイのような形でテーマを分けて、江戸期の風俗やモノの考え方などを紹介しつつ、現代のそれと比べてみるというような内容。
興味深かったのは「名前は個人のものではない」という話。江戸期には武士も商人も人生のうちで名前が変わる。生まれたときの名前、家を継いだときの名前、隠居してからの名前。そして、その名前は個人を表すのではなく社会的な役割を表す。柳屋加兵衛といった名前は「その人」を表すのではなく、たとえば薬問屋の柳屋加兵衛。薬問屋という社会での役割を表しているのだそうです。だから、薬問屋を継がないのであればそこの倅であってもその名前を名乗ることはできない。
逆にいうと、出自がなんであれ、もともとどんな名前であれ、ある社会的役割を引き受けたときにはその役割に応じた名前になるということ。ある日突然に。
現代では生まれたときから自分と名前は同一。だから「自分は何か?」「自分らしさとは?」といったアイデンティティについての悩みや迷いが生じるのでは、と著者は言います。
役割が変われば名前も変わる。自分が社会で果たす役割に応じて、自在に自身の名前、言い換えればキャラクターのようなもの、も自在に変えることができるのだ、と考えると、難しいことは考えなくてもいいのかもしれませんね。