書くことが自分を確かなものにする

酒井譲さんのブログNED-WLTにこんな記事がありました。
書くことは、僕だ。それは、新しい自分を獲得するための大切な方法として。 : NED-WLT
この「手が勝手に動く」という感覚は僕もとてもよくわかります。文章を書いているうちに、頭と手が連動しているような錯覚に陥りながら、自分が頭の上の方で考えていたこと・書こうと思っていたこととは違った、何というか「頭の下の方」に隠れていたような内容が表面に浮かび上がって、手を通じて文章になっていく感じ。
中学・高校生の頃によく作文の課題がありました。採点の厳しい先生だったこともあり、教室のみんなは作文の課題が出ると嫌がったものですが、僕はいっこうに構わなかった。テーマが決まらないままに提出前日の夜を迎えても、焦ることはなかった。というのも、書き始めればいつの間にか考えが沸き上がり、手を伝って原稿用紙を埋めて行ってくれる「あの感覚」を知っていたから。
大人になってみると、実はそういう「あの感覚」が個人の知的生産にとってとても大切なんだとわかることになったのだけれど、「書くという行為」を強制されることの少ない環境に身をおくといつの間にか「あの感覚」の手触りとともに、そのかけがえのなさも忘れてしまったりする。「頭の下の方」にある考えを形にしていくことが、実は自分を確かなものにしていくことにつながるというのに。
文章を書くということが職業上とくに必要とされない人間にとっては、「自分に約束する」形でしか書く時間を確保することはできないので、僕を含めた多くの人にはブログや日記を習慣化するのが一番の近道ということになると思う。Twitterでは少し短すぎて文章が沸き上がる手前で140文字が終わってしまう。
まあ要するに何を言いたいかというと、ブログをちゃんと書いていこうと思いました、ということ。