自分にとっての「航海日誌」としてのブログについて

これまでかれこれ10年近くにわたってブログを書いて来て、毎日書き続けた時期もあれrば数ヶ月全く更新しない時期もあり、のらりくらりとやって来たなというのが実感です。それでも振り返ってみると、頻繁に書き綴っている時期の方がそうでない時期よりも知的な充足感は高かったという実感があります。やはり、続けている時に出ている「知的慣性力」は心地いいですね。これからもそうありたいものです。
そんな中で、ブログや日記を書いて行く上でのポイントになりそうな考え方を僕なりにまとめてみます。

①生活の中でブログのネタになりそうなものに出会ったら、メモをとるなりして記録する
書こうにもネタがない!という状態は苦しいです。でも、生活の中でお、「いいね!」と感じたものを意識的に集めていると、実はけっこうたくさんの「いいね!」に出会っていることに気づきます。それをどこかに記録しておいて、書くときにそれらを拾い集めながら自分の頭の中に生まれた思いや考えを綴って行くことで、いつしか自分なりの文章が出来上がっていることが多い。

②あまり推敲せずに、だーっと書く
Webに公開する文章だけに、いろいろと推敲を重ねたり考えを練り上げたりしようと思ってしまうのが人間の性です。でも、これをやると膨大な時間をブログに割くことになる上に、内容がつまらなくなります。というのも、考えれば考えるほど、「一般的に差し障りのない、ありがちな論理展開」になってしまうから。
勢いでだーっと書いた方が、多少は論理に矛盾があろうが飛躍があろうが、自分らしい考えが表に出てくる気がします。本格的に論文にまとめるとか、人に発表するとかいうタイミングで、論理構成などは修正すればいい。

③アクセス数や他人の評価は気にしない
ブログをブランディングツールとして使う著名人やコンサルタントなら別ですが、個人が個人のために書くブログであれば、アクセス数や評価を気にした内容・文章にする必要はありません。あくまでも「自分自身への手紙」「自分の人生の航海日誌」という位置づけで粛々と続けて行くことでしょう。
でも、親しい周囲の友人などからたまにフィードバックがもらえると嬉しいものなので、Facebookにリンクをはるくらいはしてもいい。要は、他人からの評価を得ることが目的化しないようにすることです。

④時おり読み返してみる
「自分への手紙」「人生の航海日誌」なので、時おり読み返してみるとすごくいい。自分の考えの軌跡だったり、その当時に関心を寄せていたテーマだったりが浮き彫りになり、自分の今後の人生航路を考えるのにも示唆を与えてくれます。

「航海日誌」を書くという考えは、先日読み返してはっとした梅棹忠雄「知的生産の技術」に出て来た用語です。

知的生産の技術 (岩波新書)

知的生産の技術 (岩波新書)

人生という航海をする船の船長になったつもりで、その責務として日誌をつける。そう考えると、何だかやる気も湧くというものです。

 書くことが自分を確かなものにする

酒井譲さんのブログNED-WLTにこんな記事がありました。
書くことは、僕だ。それは、新しい自分を獲得するための大切な方法として。 : NED-WLT
この「手が勝手に動く」という感覚は僕もとてもよくわかります。文章を書いているうちに、頭と手が連動しているような錯覚に陥りながら、自分が頭の上の方で考えていたこと・書こうと思っていたこととは違った、何というか「頭の下の方」に隠れていたような内容が表面に浮かび上がって、手を通じて文章になっていく感じ。
中学・高校生の頃によく作文の課題がありました。採点の厳しい先生だったこともあり、教室のみんなは作文の課題が出ると嫌がったものですが、僕はいっこうに構わなかった。テーマが決まらないままに提出前日の夜を迎えても、焦ることはなかった。というのも、書き始めればいつの間にか考えが沸き上がり、手を伝って原稿用紙を埋めて行ってくれる「あの感覚」を知っていたから。
大人になってみると、実はそういう「あの感覚」が個人の知的生産にとってとても大切なんだとわかることになったのだけれど、「書くという行為」を強制されることの少ない環境に身をおくといつの間にか「あの感覚」の手触りとともに、そのかけがえのなさも忘れてしまったりする。「頭の下の方」にある考えを形にしていくことが、実は自分を確かなものにしていくことにつながるというのに。
文章を書くということが職業上とくに必要とされない人間にとっては、「自分に約束する」形でしか書く時間を確保することはできないので、僕を含めた多くの人にはブログや日記を習慣化するのが一番の近道ということになると思う。Twitterでは少し短すぎて文章が沸き上がる手前で140文字が終わってしまう。
まあ要するに何を言いたいかというと、ブログをちゃんと書いていこうと思いました、ということ。

 スペースがあるというのはやっぱり豊かさなんだと思う

名古屋に引っ越して、いろいろなところで「豊かさ」を感じている今日この頃です。これは絶対的に名古屋がいいとかいうわけではなく、あくまでも東京から引っ越して来てすぐの人が感じるごく当たり前の、とても相対的な感覚としての豊かさなんだけれども。
今日の夜は仕事を終えて家で夕食を食べた後、ヨメが会社の餞別でもらってきたネスカフェバリスタというインスタントコーヒーを使ってカプチーノやらカフェラテやらを作れるコーヒーメーカーで使うべく、それ用のインスタントコーヒーを買いに近所のスーパーに出かけました。

ネスカフェ バリスタ 12090997

ネスカフェ バリスタ 12090997

まず東京と違うのは、ショッピングカート。子どもを乗せるキャリアがついているのは東京でも見かけるけど、子ども用にクルマの形をしたのとかまで置いてある。これデカいなー、こんなのスーパーで押してたら邪魔だなーと思いながら、小さい方のカートにムスメを乗っけて店内へ。
そこで納得したわけです。店内広い!そして通路が広い。ゆったりしたスペースに、よく見る真っすぐの陳列棚だけではなく、アイランド型の陳列コーナーがかなり優雅に配置されている。これだけのスペースがあれば、確かにクルマ型のカートも大丈夫だ。
陳列棚のスペースそのものにも余裕があるようで、1種類の商品にも複数の選択肢が用意されているケースがほとんど。野菜にも果物にも、だいたい価格帯の違う同種の商品が陳列されていて、買い物客は自分の予算感にあったものを選べるようになっている。これも東京ではあまり見かけない光景。東京だと、スーパーごとに取り揃えている価格帯がだいたい固定されていて、「高級なものばかりのスーパー」、「安いものを置いているスーパー」というのが住み分けているけれど、こっちではどうやらそうでもないらしい。
余裕のあるスペースの中に商品がゆったりと陳列されている様子を眺めるともなしに眺めていると、やっぱりそこはかとなく豊かな気持ちになってくる。これはオーストラリアやアメリカのスーパーでも感じる感覚。ゆったり感というのは、やっぱり人間の豊かな気持ちを呼び起こすものなんだなあ。
とはいえ、これにも近いうちに慣れてしまうんだと思う。それは少し寂しいことですね。豊かさは豊かさのまま、ずっとそういう風に感じることができたらいいのに。
Kazuteru Kodera

 名古屋に拠点を移しました

8月1日から名古屋に生活の拠点を移しました。大学に入学と同時に東京に移り住んで12年。実に久しぶりの故郷での生活になります。引越は今週末なので、今週は家族とは離れて一足先にこちらでの仕事を始めました。
住む街が変わる、住む家が変わる、仕事が変わる。いろいろな変化が同時に発生するのは僕自身にとっても家族にとってもインパクトのあること。それが疲労やネガティブな感情につながらず、新しい環境を楽しめるように、まずはゆっくりと慣らしていきたいと思います。
新たな環境で仕事に取り組んで3日が経ちましたが、実のところまだ本調子ではありません。仕事環境の変化に伴って些細な手続き(FAXを送るとか、文房具を探すとか)に時間がかかることもあるし、またITやWeb接続といったこれまでの仕事環境では当然にあったことが不足していたり不便だったり。そうしたことを一つずつ、自分に合ったものにしていくプロセスがしばらくは続きます。
こんなことを書くと「些細なことにこだわり過ぎ」と評されるかもしれませんが、最初に行った「環境づくり」は自腹でデスクトップPCのキーボードを購入したこと(笑)。キーの高さが高すぎて合わず、手が疲れてしまうから。3,000円の費用でタイピングの速度が速くなり、また長時間の作業にも耐えられるようになるのなら、それは十分に意味のある投資です。
こうした時に着目するのは、やはり「時間」と「身体への負担」ではないかと思っています。「時間」=変えることで仕事に費やす時間が短くなること、「身体への負担」=変えることで身体への疲労が軽減されること。仕事環境(道具も含む)を変えるのは一時の出費であり作業ですが、その効果は永続的なものです。これはまさしく「投資」ですよね。
本格的に忙しく仕事に取り組み始める前に、こうした「投資」ができる部分がどこにあるのか、見極めておきたいと思います。
Kazuteru Kodera

◯◯しないと◯◯できない 二重否定ってなんかね・・・

最近気づいた小さなことですが、ムスメと話をしていてよく「◯◯しないと◯◯できないよ」といった物言いをしていることに気づきました。いわゆる二重否定ですね。これ、仕事の上でも実はけっこうな頻度で使っていたりする。「この課題を解決しなければ、事業の成長は望めない」とか。過去のプレゼン資料なんかでも、二重否定でのコメントがけっこう多い。前半・後半それぞれに否定的な言葉を持ってくる応用編もある。「事業停滞を招く」とかね。
二重否定、言いたいことを強調するには効果のある言い方なんだろうとは思うけれど、その語感はどうもネガティブ。ない×ない と続くわけだから、当然ですよね。
ムスメに対しては、可能な限りポジティブな言葉を使おうと意識していたら、つい使ってしまうこの二重否定のネガティブ語感がいやに目に付くようになった、というわけです。習慣的に使ってしまうところが怖い。
今朝も思わず使ってしまいました。「目薬ささないと、保育園行って遊べないよ」。ものもらいができかかっているムスメに対してかけた言葉ですが、交換条件というか、悪い言い方をすれば脅迫になっていることに、すぐ気づいた。「目薬さして痛いの直して、保育園で遊ぼう!」と言い換えれば、どんなにポジティブだったか。
仕事で二重否定を頻繁に使うことにも弊害がある気がします。脅迫めいた語感がどうしてもそこに悲壮感を感じさせてしまうから、取り組む前から「歯を食い縛らないと」みたいな辛苦を想像してしまう。
ポジティブな言葉を使えば、考え方も姿勢もポジティブになる。ネガティブな言葉を使えば、ネガティブに。よく言われとおり、言葉は人を作るわけです。「気をつけて言葉を使わないと、ポジティブに元気よく生きることはできない」なんちゃって。
Kazuteru Kodera

 風を感じる浴衣生活 日本の夏には日本の衣服で

自分用の浴衣を新しく仕立てたヨメ、子ども用の浴衣をゲットしたムスメとともに家族3人で浴衣でお出かけしたいね、ということで、人生で初めて浴衣を買いました。気に入るかどうかはわかrないので、とりあえずネットで比較的手頃な価格の3点セット(浴衣/帯/草履)を。
温泉旅館のものを除けば一度も身につけたことのなかった浴衣ですが、これが想像以上に着ていて心地のいい着物です。生地の質感もさることながら、身体に密着せずゆったりとしているため肌の上を風が通り抜けていくのを感じることができ、洋服(Tシャツなど)よりも遥かに体感気温が低くなる。湿度の高い日本で、空気の動きを最大限に活かして夏を涼やかにすごそうという伝統的知恵を感じますね。
衣服というのは、その土地その土地で気候や生活習慣に合わせて進化してきたもの。従って、日本の気候・風土にはやはり日本伝統の衣服が適しているということなのでしょうね。逆に言えば、西洋化された日本の住宅で着物を着ていると不便なこともある。例えばドアノブ。我が家は掴んで下に引き下げるタイプのノブなのですが、これがよく袖口に引っかかって浴衣が破れそうになります。いやはや、文化の融合というのは難しいです(笑)
僕たちが普段身につけているズボンは、もともと馬に乗る人たちにとって便利なように設計されているようです。馬の乗り降りや騎乗に邪魔にならないように、両足にぴったりと接触するようになっているんですね。日本の蒸し暑い夏には、この「ぴったり感」が最大の邪魔者になるわけで、そこは独自にステテコなどを編み出して文化の融和を図って来ている。(このステテコも、最近はずいぶんとおしゃれなものが出ているようで、僕も最近ひとつ買って愛用し始めました。)
和服というとつい面倒だと感じたり、メンテナンスが大変と敬遠する向きも多いと思いますが、ぜひ一度試してみることをおすすめします。女性は少しスキルが必要ですが、男性はけっこう手軽にスタートできるので。
Kazuteru Kodera

国とか国家とかいう概念が「どうでもいいかも」と思えてくるんです

どこもかしこも、「グローバル」というのがキーワードになってきているみたいです。僕が以前に仕事をしていた人材育成の業界でも、ここ1年くらいで猛烈な勢いで「グローバル人材の育成」がテーマになり、どの企業も力を入れるようになってきています。いま身をおいている製造業の世界でも、とにかく「海外へ、さもなくば死」というような、ある種の悲壮感にも似た感情が支配力を持って来ているのを感じます。

日本では、どうも国境というものが強烈に意識されるケースが多いようで、旅行も「国内か海外か」、人間も「日本人か外人か」、事業も「国内事業か海外事業か」といった形で、国内か海外かの二元論で語られることがとても多い。

そうした背景には、日本という国が良くも悪くも均質的で、外国の言語や文化との融和が進みにくい環境にあること。また外国語を話せる人が少なく、何をするにしても「内か外か」を意識せざるを得ない状況にあることがあるのでしょう。日本列島と世界とを隔てる海の存在も大きいでしょうね。

いまこんな本を読んでいます。正直、「目からウロコ」の一冊です。中学校高校で学んだ世界史というものがいかに定住型の文明・農耕型の文明に偏った視点で描かれたものであったかということを感じるし、ある種の危機感を覚えさえします。これまでの歴史認識・世界観は何だったんだろう?と。

歴史はその時代を生きた人たちが書き残した記録を元に、後世に生きた人の手で人為的に再現され認識されたものであって、そのままの事実ではありません。特に、文書での記録をほとんど残すことのなかった遊牧民たちの活動については、いかにその世界史に与えた影響が甚大であっても、軽視あるいは曲解されて後世に伝えられることが多い。それを鵜呑みにして歴史認識を構築することは、著しく偏った目線で歴史と世界とを捉えることになりかねない。そんな観点に立って、この本はあえて遊牧民の活動にフォーカスし、彼らの活動を基軸として世界史を綴っていきます。

遊牧民は定住しない。馬に乗り、家畜を連れて動き回る。だから、彼らの作った大帝国(日本でもよく知られている、匈奴モンゴル帝国など)も、今でいう「国」という概念とはずいぶんと違い、国境なんていう考え方はとても曖昧なものだった。それに、モンゴルという巨大帝国に暮らす人たちは多様な言語や血統をもった人たちで、「モンゴル人」という概念も曖昧なもの。モンゴル=騎馬民族の文明という捉え方をされるけれど、モンゴルの領域内には農耕をしている人もいれば商業をしている人もいたし、狩猟民もいた。みんなひっくるめてモンゴル人だったわけです。

考えてみれば、○○人とか国境線なんていうものは、ここ数十年のとても新しい歴史の中で、西欧が生んだ国民国家という考え方が世界的に広まっていく過程で生まれものなんですよね。それまでは、「国」というのは遊牧民に限らずあまり意識されることのない枠組みだったし、そもそも国境線なんて存在していないケースがほとんどだった。

というわけで、僕たちも日頃からあまり「日本か外国か」といった二元論を意識せず、遊牧民的に良い意味でぼんやりとした国の概念の下に暮らすほうが、よほど自由で可能性に満ちたものになるんじゃないかと思うわけです。昔の人はみんなそうだったんだから。
Kazuteru Kodera