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キャラクターというもの

またしても落語関連の本。先日のエントリーと同じ著者による著作です。

落語論 (講談社現代新書)

落語論 (講談社現代新書)

冒頭に、「キャラクター」というものを個人に結び付けて固定化する現代の風潮への疑問が呈されています。

全ての人がそれぞれ独自の「キャラクター」だけを持ってるというのは幻想だ。キャラクターというのは、常に一方向で表される。「怒りんぼ」はいつだって怒りやすい人であり、「陽気で社交的」な人は常に外向きであるとされる。その反対の性向を持つことはなく、ぶれることはない。そのほかの性格部分は無視されている。(中略)
もちろん幻想だ。幻想だから、統一性が高い。人に異様な統一性が生まれる。優れた軍人のように、常にやることが終始一貫している。統一性の高い存在は、もはや人間ではない。

現実の世界であれ虚構の世界(落語や小説など)であれ、人間のキャラクターが一貫性を持って固定化されている方が確かにわかりやすい。「あの人はこういう人」といったん定義づけてしまえば、ストーリーとしても整理できるし混乱がない。しかし、「わかりやすいものだけが人の世ではない」と著者は言います。落語の世界においても、演者によっては登場人物のキャラクターを固定して噺を進めていく人がいるけれど、本来の落語はそういうものではなく、「厄介な存在である人間」すなわち簡単には類型化できない人間を表現するのが落語である、と。
私たちも現実の世界において、やはり同じように人をキャラクターと結びつけて固定化している面があることは否めません。本人もまた、周囲の人から期待されている「自分のキャラ」を演じ続けることで周囲との関係を維持していくという側面がある。必ずしもそうした行動すべてが悪いと言うことはできないけれど、過剰に周囲からの期待に自身を合わせていくことは、私たちにとってストレスにつながります。
「こういう人になりたい」「私はこうあるべきだ」というロールモデルを設定して、そのキャラクターに自身をマッチさせようと努力することで人が成長することはよくあります。言い換えれば、自己成長のプロセスというのはそういうものだとも言えます。目標を設定して、それに向かって自己を矯正していくプロセス。ただ、それはいつでも内発的であるべきで、周囲からの期待を出発点にすることは危険な旅路の始まりであるという気がします。
また、そうしたロールモデル設定と目標地点へのあくなき自己改革というのは、徹底的にやってしまうと疲れるものです。この本の著者が言う落語の世界に描かれているように、キャラクターだけでは括れない「厄介な存在」である自分をまずは認識して、のんびりと成長の旅路を歩んでいければいいのでは、と私などは思ってしまいます。