「立ち上げ」の興奮とその後の罠

タイにおける子会社2社の「立ち上げ」という仕事をスタートして約2年(日本における準備活動も含めて)が経ちました。ちょうど2年前の今ごろ、海外における新拠点の候補としてタイという場所が挙がり、さて検討してみようかという動きが始まったわけです。

実際にタイに拠点を置いてから1年と3ヶ月。ようやく工場における生産活動は本格化し、毎月の売上とコストを数値として追いかけられる環境になりました。これまでは売上ゼロだったわけですから、⚪︎⚪︎率を計算しようにも、分母がゼロで計算できないという有様。そう思えば、ずいぶんと立派になったものです。もちろん、まだ赤字経営で、とても経営とは言えない状況ですが。

そんな中で、僕がいま直面しているのは「立ち上げという興奮から抜け出した後の罠」ともいうべき状況です。
何かにつけて、「ゼロから始める」「スタートを切る」というのは大変なもので、当事者の精神状態もある種の興奮状態に置かれることが多い。それは第一号のメンバーとして乗り込んだ僕だけに限らず、タイ人スタッフ、駐在員も皆、程度の違いこそあれ似たような興奮状態に置かれます。
机も椅子もなかったところにオフィスらしき形が整い、スタッフが増え、機械が搬入されて、物質的な会社の形ができてくる。やがて機械がうなりを上げて動き始め、何やら製品のようなものが出来てくる。待ちに待った顧客からの初オーダーがやってくる。どの一つ一つも、みな記念日であり、喜びです。そこには、ミッションやビジョンといった高尚なものは必要なく、ただただ毎日何か新しい成長があり、進化がある。もちろん問題も山積みなのだけれど、それは「やらなくてはいけない宿題」というよりは、コース料理でどんどん次の料理が運ばれてくるのを待つような感覚に近い。

ところが、やがてそうした興奮状態から抜け出す日がやってきます。受注は日常化し、毎日同じような姿形をしたオフィスに出社して、どこかで見たことのある問題を解決することの繰り返し。立ち上げに邁進していた時に見えていた景色はいつしか彩りを失って行き、ふと立ち止まると「何のために?」という疑問が頭をもたげてくるのです。「事業立ち上げのために」という統合理念によって一つにまとまっていた組織が、その興奮状態から覚め、新しいステージに入っていく瞬間です。

「立ち上げるために」という統合理念の推進力を失った組織は、次第に弛緩してきます。ゼロスタートの頃の景色を見たことのないメンバーが増えてきて、現在の姿が当たり前だといった発言や、不足するリソースに対する不満の声が散見されるようになる。当然ながら、内部対立も表面化してきます。目的地なく漂流する船のように、どことない違和感が饐えたような匂いを放ち始めるのです。

幸い、まだ僕の眼前に広がる光景からは、そうした悪臭はそれほど感じられはしません。ただ、それも時間の問題だと感じています。今は、日本人・中国人・タイ人という事なるバックグラウンドを持つ人々を束ねる一つの統合理念をどう生み出して伝えて行くかを考えています。

 

 

 

 

 

 

1年半ぶりのブログ投稿

1年半ぶりのブログ投稿です。合計700回近く更新されているこのブログでも、過去に何度か1年以上の空白期間が生じたことがあるのですが、中断の理由は「特になし」というものばかり。体調を崩したとか、仕事がめちゃくちゃ忙しくなったとか、そういったエポックメイキングな出来事なく、ふうっとロウソクの火が消えるように、中断されてしまう。不思議なものです。

ひとつ言えることは、こうした形で何かをアウトプットする、したいという気持ちになったことは何はともあれ良い事だということ。以前にここで何度か書いた通り、アウトプットなくして良質のインプットなし、なのですから。どうして継続できないんだ!!バカバカバカ!と自分を責めて反省を迫るより、「まあ、結果オーライでしょ」と再スタートをさっぱりした気持ちで切る方が、僕には性にあっている気がするのです。

さて、この1年半の空白期間で、僕の生活は大きく変わりました。名古屋から生活の拠点がタイ王国に移り、1ヶ月の半分以上をタイで過ごす、日本の家族の元には「出張」という形で月のうち1週間ほど帰るというパターンが定着しています。事業会社2社の立ち上げとその経営のため、というのがタイ滞在の目的で、自分の仕事に投じる時間の90%まではタイの事業に振り向けられています。

Bond大学でのMBAコースを終えて、「Global Leadership MBA」なんていう学位を取ったのはいいけれど、それを実践の場で鍛え上げ磨き上げる機会がなければ、とぼんやり考えていたところに降ってわいた自社の海外拠点新設。すいすいと流れに沿って泳いでいたら、気がついたらタイの地でビジネスをしていたということで、これは本当に運命というか、何か不思議な縁を感じてしまいます。

そして、泳ぎ着いた先でのタイでのビジネス経験というのは、これはまた本当にかけがえのないものです。まだ本当の勝負は始まっていない、スポーツで言えば準備運動のようなステージにいるわけですが、それでも頭が毎日ぼんやりとするくらいの刺激と学びを与えてもらっています。

ここでは、これからそんな学びも交えて、またいろいろと書いて行きたいと思います。

7インチタブレットとともに過ごす早起き時間

 冬になると早起き活動を始めるという不思議な習性を持っています。誰しも寒い朝に布団から抜け出すにはエネルギーが要るもの。好き好んで冬場にだけ早起きなんてことをする人はいないのではないか?と思いますが、僕自身が早起き活動を始めるのはたいてい冬だったりします。そして、春が来るころにはいつもの生活に戻ってしまう。
 冬という季節そのものが好きということもあるし、何より冬の朝のキリっとした空気感と、徐々に明けていく空の雰囲気が何より気に入っています。今こうして文章を書きながら、振り返って窓の外に目を向けると、オレンジ色と薄いブルーとのグラデーションがとてもキレイで、何となく満たされた気持ちになって笑みがこぼれてくる。
 さて、そんな冬の早起きで生み出された時間を、最近はもっぱら読書に充てています。GoogleがリリースしたNexus7という7インチ型タブレットを手に入れてからというもの、電子書籍を読むということが以前よりもはるかに手軽に、そして苦痛なくできるようになりました。世間では7インチタブレットに対して賛否両論あるようですが、読書端末としては圧倒的に使い勝手がいいというのが僕の実感。何より、片手でホールドしていても全く疲れないという点。これは700gを超える重量を誇るiPadではありえないことで、ある程度まとまった時間を読書に使う人にとっては「持っていて疲れない」という点だけで軽くiPadを凌いでしまう。ハードカバーの書籍になるとiPadよりもさらに重いなんてことはざらにあり、読む場所を選ぶ(ソファに寝転がってとはいかず、テーブルのあるところでないと読めない)のですが、7インチタブレットであれば、どんな大著であっても手の中に納まってしまいます。
 電子書籍専用端末がどんどんと世に送り出されている昨今ですが、仕事も含めたトータルでの利便性を考慮すると、eインク画面の見やすさという点をはるかに凌駕する利点が、7インチタブレットにはあると考えざるを得ません。当面は、この端末を片手に時間を過ごすことが多くなりそうです。
 
 

事件は現場で起きているが、それを正しく理解するには全体としてのストーリーが必要

「事件は現場で起きている」は、ビジネスの現場でもよくささやかれる言葉です。主に現場サイドの意見として、現場の最前線の状況を知らない組織の上層部を批判する際などに用いられることが多い。テレビドラマの中で使われたセリフが、これほどビジネスにまで浸透するというのも珍しいことです。それだけ、組織の本質を突いているということでしょう。

でも、そうしたキャッチフレーズを使う際は注意が必要です。使っている本人が、いつしかそのキャッチフレーズの意味するところを「当然のこと」として受け入れてしまうことになりがちだからです。今回の例で言えば、 「事件は現場で起きている。だから、現場の人間のほうが適切な判断ができる」と、テレビドラマの中の状況を現実に置き換えて、自分の価値判断を決めてしまう。時にはドラマの中の状況が真実であることもありますが、そうではない場合もあることを忘れてしまう。それがキャッチフレーズの危うさです。

ビジネスの現場でよく目にするのは、「現場には確かに情報があるけれど、それを組織の目的達成に向けてうまく活用できていない」という状況です。お客さんがもらしたちょっとした情報、それをしっかりと記録し他のお客さんからの情報と合わせて、 「要するにどういうことなのか? 」を考える。あるいは、あらかじめ立てた仮説ストーリーの中で、その情報がどんな意味を持つのかを考える。さらに、その仮説ストーリーを検証するために、新たな情報を取りに行く。そうした活動ができていない。

現場に存在する情報のひとつひとつは、 点にしか過ぎない。そうした点をつなぎ合わせて一本の線にしていくためには、ストーリーが必要です。現場にある情報にストーリーというスパイスを加えることで、それらは瞬く間に光を放ち始め、大きな意味を持つものになっていく。そんな点から線への変化は、現場で活動する一人一人の心を躍動感で満たしてくれる刺激的な体験です。

そうしたストーリーを考えるのが経営者の仕事なのか現場の仕事なのか、よくわかりません。ただ間違いなくいえるのは、現場から遠いところにいては、ストーリーは生まれないだろうということ。また同時に、現場に埋没した日々を送っていても、やはりストーリーは生まれないだろうということ。僕自身の今の仕事を振り返って考えても、現場からの適度な距離感というのが最も重要で、最も難しいと感じます。

一日を生産者として始める。実践編

先日ここで紹介した、一日を生産者として始めるということについて、いくつか実践してみたので感想を書きます。
まず自分でも一番気に入ってるのが、朝食をきちんと作るということ。オムレツを焼き、簡単な野菜炒めを作ったり、パンを焼いたり、コーヒーをいれたり。ほんの15分程度でできる作業ですが、一日がとても豊かに始まる感じがします。好き嫌いの多い娘もオムレツは大好きなので、とても喜ばれます。気分が豊かになり、家族にも喜ばれ、健康的でもある。素晴らしいことですね。
次に、やはりこうしてブログを書くというのもいいと思います。寝ている間にふと思いついた事や、昨日まで頭の中でモヤモヤ考えていたことを、文章にしてみる。すると、自分でも考えてもいなかったようなアイデアが湧いてきたり、モヤモヤがまとまったりしてくる。この、文章化することの効用というのは、以前にもここで書きましたね。
朝というと、新聞に目を通したり、テレビのニュースをチェックする、という人が多いと思います。自分の親の世代は当然のようにそうしてきたし、テレビドラマの中でもそれがあたかも当たり前のことであるかのように表現されています。
でも、朝にニュースをチェックする、というのは一昔前のモデルのような気がします。紙の新聞を主に読んでいた時代は、朝にならないと前日の出来事のことがわかりませんでした。通常、朝刊の記事の締め切り時刻というのは夜中の1時なので、それから編集して印刷して配達して、というプロセスを経るとどうしても朝になってしまいます。だから、当日の朝に前日の出来事を知る、というのが当たり前になった。
でも今は違います。ニュース記事はリアルタイムに近い形で配信されます。その日の出来事を知るのに、翌朝まで待つ必要ないのです。その日のうちに、夜のうちに、チェックしてしまえばいい。
これからは、テレビドラマの中でも、朝は朝食を作る、コーヒーを入れる、ブログを書く、みたいな行為があたりまえになるといいですね。

 現実を直視する 「かもしれない運転」の経営

運転免許を取るために通った自動車学校。もう10年以上前のことなのでほとんど覚えていませんが、唯一といっていい記憶の中に「かもしれない運転」というのがあります。クルマを運転しながら、「まさかこんな道で飛び出してくる人はいないだろう」「まさかここで前の車が急ブレーキを踏むことはないだろう」と決めつけるのではなく、「もしかしたら人が飛び出してくるかもしれない」「もしかしたら前の車が急ブレーキを踏むかもしれない」と、かもしれない運転をしなさいよ、と。
一見大丈夫そうに見えて順調にドライビングをしていても、いつも「かもしれない」の意識で注意深くいるということ。ビジネスの世界でも、「かもしれない運転」がいいと僕は思っています。業績が順調に推移しているように見えても、実はその底流で近い未来に暗い雲を投げかけるような事象が進行しているもの。「過去の業績は順調だけれど、その影でもしかしたらこんなことが起こっているのかもしれない」という意識でデータを洗い直してみる。そして、データの中から見えてきた現実をしっかりと直視して、警鐘を鳴らし危険回避に向けた行動を断固として実行していく。
当然ながら「かもしれない運転」をするためには仮説が必要です。業績好調の中でも、「競争が厳しくなって受注成功率は下がっているかもしれない」「特定の得意先に売上が偏っているかもしれない」「従業員が繁忙の中でモチベーションを下げているかもしれない」など、一般に考えられることだけではなく、業績好調の中では起こらないだろうと思えるようなことも含めて、様々な可能性を検証してみる必要があるわけです。
いくつかの「かもしれない仮説」を用意したとして、ここから先のプロセスには二つの障害が待ち構えています。一つは仮説を検証しようにもデータがない。二つ目はデータがあって分析して出てきた現実を、自分も含めた社内が直視できない。
実のところ、この二つ目の障害が特に厄介です。データは雄弁に危機の進行を物語っているのに、業績が好調であることに起因する自信や社内の雰囲気への配慮などが先行して、その現実と正面から向き合うことができず、様々な理由を持ち出して事実を捻じ曲げてしまう。捻じ曲げている認識がないままに、いつの間にか捻じ曲げられているところが怖い。これは、データを分析した当人でも陥るワナです。
登場する捻じ曲げ理由はさまざまですが、ありがちなのは、以下のようなパターンでしょう。

  • 「データの分析や計算が間違っているのでは?」とデータそのものを疑うケース
  • 「うちの業界は特別だから」と業界や自社ビジネスの特殊性を唱えるケース
  • 「みんなこんなに頑張っているのだから、水を差すな」と社内ムードを優先させるケース
  • 「しばらく様子を見てみよう」と、問題解決を先送りして実質的に無視するケース

現実を直視するのは難しいです。理性で理解できたとしても、これまで頑張ってきたのだから、とか、解決策の実行は大変そうでイヤだ といった感情の部分がそれを受け入れることができず、思わずその感情に突き動かされて反応してしまう。だからこそ、組織として「かもしれない運転」の風土を作っていくこと、いい意味での緊張感やデータ重視の文化をあらかじめ作っていくことが大切になるのだと思います。

 日本の製造業にまつわる壮大なファンタジーについて

ここ数日は主に工場で仕事をしていました。これからも、工場で過ごす時間は長くなる予定です。そんな訳で、「日本といえば製造業、ものづくりの国でしょ!」というよく言われる話について考えてみようかなと思います。
結論から言うと、僕は個人的にこの「日本=ものづくり」という話には全く同意していません。同意していないどころか、政治家やマスメディアがこうした論調をあおるせいで日本人のイメージが固定化され、ずいぶんと被害を蒙っているとすら感じています。特に、「誰にも真似のできない職人の技が日本の強さ」などと言われると、少し唖然としてしまいます。
確かに、日本製の電化製品や自動車が世界を席巻し、Made in Japanが本当の意味でのブランドだった時代は長かったと思います。世界の多くの人が日本製のモノに憧れたわけです。なぜか?
日本がブランド化した理由は、その「安定した品質」ではないでしょうか。つまり、「異常なくきちんと動く」。上記のとおりマスメディアは「日本=ものづくり」をあおるのが大好きなので、今でもMade in Japanを信奉する海外の方をインタビューしたりしていますが、そうした人々が口を揃えて言うのは「長く使っても壊れない」「過酷な環境でもきちんと動く」という話ばかり。ブランドはブランドでも、イタリアの衣料品やスイスの時計などとは全く違う理由でMade in Japanがブランドを確立していたことがわかります。それは、「イレギュラーがない」ことに起因するブランドだったわけです。
では、時代が改まって現在、そうした「イレギュラーがない」ことについて世界はどのように変わっているか。考えてみれば明らかで、「そんなの当たり前」という環境になっている。僕がこのブログを書いているMacbookは台湾の会社が中国で作った製品ですし、家庭内の電化製品のほとんどは海外で作られていますが、壊れたり異常な動作をすることなどありません。「そんなの当たり前」なんです。
「イレギュラーがない」ことというのは、「できて当たり前」の次元に到達してしまうとそれ以上の進歩がない領域です。一歩一歩努力を積み重ねて高みを目指せば、誰しもがいつかは到達するし、到達したらみんな同じレベルになる。一方、美しいスイスの時計やおしゃれなイタリアのファッションには「上限」などというものはありません。美しさや洗練された感性というのは、一歩一歩レベルを上げて行くという種類のものではない。だから、「追いつかれる」こともないし「追い抜かれる」こともない。
現在、製造業の大半はデジタル化され、またマニュアル化されています。「誰にも真似のできない職人技」というのはきわめて限られた一部の領域に残っているだけで、そのほとんどはデジタル技術で安定的に作り出せるレベルになっている。そうした一部の職人技だって、勉強熱心なアジアの若者たちがどん欲に習得していっている。日本の勤勉な労働者が丁寧な作業によって生み出した安定品質も、今では自動化とマニュアル化によって誰でもできる「当たり前」になっている。
かつての日本の技術は、ライバルたちの猛烈な学習とレベルアップによって、とっくに「当たり前」になっているのです。それを後押ししたのは、デジタル技術であり、また日本自身が押し進めた作業の標準化という考え方でしょう。
だから今なお「日本=ものづくり」といったイメージを吹聴するのは、意味がないどころか有害だと思うのです。世界で「当たり前」になった水準をあたかも神聖なる領域かのように扱うのは、ファンタジーを通り越して信仰です。はっきりと「日本の製造業がかつて誇った優位性はもはや存在しない」と認識して、その上で何をどう構築していくのかを考えなければいけません。
もちろん、製造業の中にも依然として日本が世界を圧倒している分野はあります。それは主にデジタル化されない領域。品質に影響を与える要素が多数存在して、コンピュータでは最適値を割り出すことができないような分野など。そうした技術領域に強みを持つ個々の企業レベルでみれば、過去の経験の蓄積を活かして当面は戦いを優位に進めることができるでしょう。ただ、こうした領域はとても狭く、またデジタル技術の進歩により、年々狭くなって行くということを忘れてはいけません。