新型iPadが、というよりも日本語による音声認識が開く未来が楽しみ

新型iPadが発表され、同時にiOS5.1が発表・リリースされました。それによって、iPhone4Sと新型iPadでは日本語による音声認識入力が可能になり、人工知能Siriの機能も日本語化されました(iPadには一部機能の搭載のみ)。
さっそくネット上ではSiriに日本語でいろいろと話しかけて遊んでいる人がたくさんいるし、僕も少し遊んではみたのだけれど、Siriの知能は残念ながらまだ発展途上で、とても「アシスタント」というレベルではないというのが正直なところ。アラームやリマインダーをセットするくらいはスムーズだけれど、双方向の対話形式で情報を入手したり加工するにはまだまだ。これからの学習と進化に期待したい。
それはさておき、今回のリリースで何より素晴らしいと感じたのは、日本語をかなり正確に聞き取ってテキスト化する能力がiOSデバイスに備わったこと。ビジネスシーンでもiPadを使うことは今後どんどん増えてくるだろうけれど、ネックになっていたのは文字入力の煩雑さ。それを今回の日本語音声認識は大幅に、あるいは完全に補ってしまうかもしれない。
営業が外出先やクルマの運転中にメールに返信したり、顧客データベースにコンタクト履歴を残す。あるいは、手が塞がっていたり汚れていたりする工場の現場で、社内の情報共有データベースに情報を入力する、など。これまではキーボードがないとできなかった作業が、特にストレスなく実現できる。
また、キーボードやIT機器そのものにアレルギーがあって触らなかった人たち、タッチタイピングがあまりにも遅くて二の足を踏んでいた人たちを、テキスト入力の世界に押し出す力がある点も大きい。組織の中でITを使った情報共有に不熱心な人たちの第一の理由は、そうしたIT機器へのアレルギーと、タイピングに対するコンプレックスだったりするものなので、そうしたネガティブ感情を払拭してくれる効果が期待できる点はとても楽しみ。
日本語版Siriの能力についてはこの記事が詳しかったので、紹介しておきます。

日本語対応した「Siri」でオトナの限界に挑む!

心理学者 強制収容所を体験する

フランクルの「夜と霧」の原題は、「心理学者 強制収容所を体験する」というのだそうです。暗くしんみりとしたイメージの前者と比べて、原題の方は冷静な響きを持っていますね。よく思うのですが、海外の作品(本にしろ映画にしろ音楽にしろ)のタイトルを日本語らしく翻訳した結果として意図せざるイメージを受取り手の心に惹起しまっているケースがあります。なんというか、勿体無い。

夜と霧 新版

夜と霧 新版

受験知識としてこの本のタイトルだけは知ってましたが、上記のとおりの暗いイメージに心が惹かれず、これまで手にとることのなかった本です。が、実際のところ中身の記述・筆致はいたって冷静なもので、原題のとおりあくまでも心理学者として経験したナチスドイツの強制収容所とそこに収容された人々について綴られています。
幸福とは正反対といっていい極限状態の中で、人間が生きるということについて生々しい記述が多くされていて示唆に富む一冊ですが、今の自分が引き込まれた一文はこんなものでした。

自分を待っている仕事や愛する人間に対する責任を自覚した人間は、生きることから降りられない。まさに、自分が「なぜ」存在するのかを知っているので、ほとんどあらゆる「どのように」にも耐えられるのだ。

精神科医である著者が、絶望のために打ちひしがれ自殺を考える人々を前にして、異国で帰りを待つ子どもたちや完成されることを待っているしごと 仕事のことを思い起こして生き抜こうと話を
する場面です。

 慣れによる安定感と停滞の危険な罠について

今シーズン限りで中日ドラゴンズの監督を退いた落合氏の本をシーズン終了直後に読みました。その中で興味深かったのが、ともに守備の名手と言われた荒木・井端の2人の守備位置を監督命令で入れ替えたことに対する同氏の考え。すでに「名手」の域に達していた2人を、セカンドの荒木をショートに、ショートの井端をセカンドに。似ているように見えるこの二つのポジションは、動き方が真逆になるため切り替えはとても難しいとされているそうです。変更直後は当の2人も大いに戸惑い、不満を持つシーンもあったとか。
そんな選手の士気を損ないかねない状況での意思決定の背景にあったのは、

慣れていることによる安定感をとるか、慣れによる停滞を回避するか。

という選択。
結果として、

荒木は遊撃手(ショート)を経験することで、二塁手に戻っても遥かに優れたプレーをするはず。転換を経験したことで、荒木の守備は「上手い」から「凄い」に進化している。

という成果を得られたといいます。
僕個人としては、以前から企業における配置転換に疑問を持っていました。ある部署で経験を蓄積しているメンバーを別の部署に異動させることは、彼・彼女の蓄積したノウハウを他部署に伝播させるというメリットはあるものの、本人の士気が下がる危険、短期的に大きく組織の能力が低下する危険、さらには組織としての「知恵の蓄積」が断絶してしまう危険とも隣り合わせ。現状に不満を持っているメンバーが対象ならいざ知らず、脂の乗った活躍中のメンバーに対しては、異動は控えるべきでは?という思いがあります。
一方で、自分自身の経験を振り返ってみれば、いくつかの業界・仕事内容を大きくまたいだ転職を経験したことで、自分の視座・考え方、そしてスキルが大きく成長し幅広いものになったという実感がある。幸い僕の場合は誰かに強いられてキャリアパスを変えるということはなかったけれど、それが自分の意思であれ他人の意思であれ、こうしたパスの変更が成長につながることはどうやら間違いなさそう。
思えば、これは友人関係などの人間関係にも当てはまります。長年親しんだ友人とだけ付き合っていれば、お互いかって知ったる者同士だけに安定感があり、少々のことでは嫌われないという安心感があるからリラックスして付き合いができる。新しい環境に飛び込んで新しい友人関係や人間関係を作ろうとすれば、成長につながる刺激を受け取る見返りとして、「相手からどう思われるか?」といった不安に苛まれたり、劣等感を味わったりといった危険もつきまとう。
慣れによる安定と慣れによる停滞。この二つをバランスさせることが鍵になる、というのは簡単だけれど、実際のところをそれをどのレベルで行えばいいのか?を事前に納得いく形で判断するのは難しい。時には落合監督のように、「責任は自分がとるしかない」と腹をくくって、大きく不安定な賭けに出ることで新しいきっかけをつかむことがあるかも。
僕が自分自身に言い聞かせるのは、「慣れてきたな」とか「だいたいこういう感じでやれば大丈夫だろう」という「上級者の勘」みたいなものが働くようになったら、そろそろ腰を上げて新しい挑戦を始める時期だよということ。それは必ずしも仕事を変えるということではなく、新しい分野の勉強をする、新しい人的ネットワークを作る、といったことも含めて。

采配

采配

 読書メモについて 3.活用のしかた

前回までに書いたような形でEvernoteに保存した読書メモ(Evernote上で言えば「ノート」)ですが、そのまま保存しているだけでは何の役にも立ちません。もちろん「こんなに本を読んだんだなー」という自己満足のネタにはなりますが、それでは本来の意味は全くない。
スクラップブック(新聞や雑誌の切り抜きを貼る冊子)にしても、この読書メモにしても、後から見返して何らかのアウトプット・知的生産に活用してこそ、蓄積する意味があるわけですよね。
以前から紹介している梅棹忠雄氏の「知的生産の技術」の中には、この読書メモと同じ機能を果たすものとして「カード」が出てきます。同氏は、フィールドワークに出たときや、あるいは日常生活、そして読書の中で「面白い」と思った事柄について、何でも規格化された同一のカードに書き記しています。そして同氏曰く、そのカードを「くる」ことにこそ意味があるのだと言います。つまり、蓄積したカードをパラパラとめくりながら、新しい着想を得たり、構想を膨らませたりするわけです。
ここで紹介してきた読書メモについても、梅棹氏がカードを「くる」ように、パラパラと見返してアウトプットにつなげていくことでその存在意義が最大化されると思います。では具体的にどうやるか。
前回までのプロセスで、読書から得られた果実は当初「メモカード」として蓄えられ、その後に自分の考えたことやアイデアを書き加えて「思考カード」へと進化していくことをお話しました。ここでは、その「思考カード」を2つのアプローチでくっていきます。
一つは、何らかのアウトプットのテーマを決めて、それに関連するカードを見返して行くこと。例えば仕事上で何かのレポートを作成するとか、資料を作るといった場面を想定してみてください。仮にマーケティング関連のアウトプットをするのであれば、「マーケティング」タグや「戦略」タグ、はたまた「ソーシャルメディア」タグといった関連しそうなタグでノートを抽出し、それらを一つずつ見返して行きます。これまでに自分のアンテナに引っかかって来た事柄を再確認し、付加価値の高いアウトプットにつなげていく。
二つめは、テーマは決めず、ただ一定の時間を定めて、まさしくパラパラ見るというやり方。この時は「思考カード」タグだけで抽出します。当然かなりの数のノートが引っかかってきますが、これをざーっと見て行く。すでに中身を忘れていて、タイトルを見てもこれなんだっけ?と思うようなものは、中身を再読して確認する。すると、異なるテーマだと思っていたノート同士に面白いつながりが見えて来たり、それらを組み合わせるkとで新しいアイデアが生成できたりする。それを、さらに新しいノートにまとめていく訳です。
これら二つのアプローチを適宜組み合わせて活用すると、これまでの自分の知的蓄積をレビューしながら新しい価値あるアウトプットをしていくことができるのではないか、と思っています。

 読書メモについて 2.残し方

前回、読書をしながら同時並行で読書メモをデジタルツールでとっていく方法の話をしました。今回はその続きで、そのようにして取った読書メモをどのように残し、整理しておくかという話。これももちろん正解はなく、僕自身も試行錯誤なわけですが、現時点でこういう方法でやっていますという話。

読書メモについて1 取り方

本を読みながら、あるいは読んだ後にその本の中で見つけた「気になるフレーズ」や本に触発されて考えたことなどを「読書メモ」あるいは「読書ノート」として記録している人は多いと思います。メモには残さないまでも、気になった箇所に線を引いておき、後から見返すときの目印にするといった方法もあります。

僕はつい数年前まであまり熱心な読書メモ作成派ではなく、たまに線を引いてもそれっきり、特に見返すこともないという読み方たをしていました。ところが、あるとき本田直之氏の本の中に「レバレッジ・メモ」という読書メモについて書かれているのを読み、これはいい!と採用したものの、その「紙に印刷して持ち歩き、いつでも見直せるようにする」という方法が肌に合わなかったようで長続ききしませんでした。

読書を通じて学んだことを自分の血として肉として定着させていくために、読書メモについて考える必要が出てくるのは、どのような形で読書メモを1.取るか、2.残すか、3.活用するか の3つではないかと思います。

上記のとおりレバレッジ・メモをそのまま導入する方法がうまくいかなかったことを経験してから、いく度かの試行錯誤を経て、現在落ち着いているのは下記のような方法です。これは、先日も紹介した梅棹忠雄氏の「知的生産の技術」に紹介されているカードの考え方を参考にし、クラウドサービスのEvernoteと組み合わせることで自分なりの形にしたものです。

今回は、まずはメモの取り方の部分について書きたいと思います。

メモの取り方

基本的には、読みながらデジタルデータで作ってしまう。具体的には、読書しながらメモしたい内容に出会ったときには、手元のiPhoneEvernoteにメモしてしまう。FastEverといった、スピーディーにノートを作成・アップロードできるアプリもありますので、それほど読書を中断せずにメモが取れます。

手元にデジタル入力のできるツールがない場合や、文字入力が難しい環境にいる場合、紙にメモをとるか、ページに目印をつけるなどしておき、後からデジタルデータに変えて入力する。

その際のポイントは、一項目について一つのメモにすること。以前は一冊につき一つのメモとしてまとめていましたが、これだと後述する「読書メモの活用」がうまくできないことがわかったのです。一項目につきメモ一つですから、一冊を読了した時にいくつものメモができふことになります。(Evernoteの場合、いくつものノートができる)

著作ごとに共通のタグをつけておけば、後からその本についてのメモを一覧することもできるので、問題ありません。

また、本に書いてあることをそのままメモした場合には「メモ」、自分のアイデアや考えを書いた場合には「思考」といった具合にタグをつけておくと、著者の考えたことなのか、自分が考えたことなのかの区別をつけることができます。

他にもタグ付けはいろいろできると思いますが、僕は現時点では、本のタイトル、メモなのか思考なのか、という二種類で整理しています。

こうして本を読みながらデジタルメモを作り、タグ付けも同時進行で行うことで、読了した時には一通りの読書メモが作られてある程度は整理されている環境を作ることができます。

 総表現社会の夢

年末年始に手に取った本の中に、東浩紀氏の「一般意思2.0」がありました。その中に、梅田望夫氏の著書「ウェブ進化論」の中の記述を引き合いに出されている箇所があります。「総表現社会」についての部分です。
ウェブ2.0への進化にともなって、ブログやYouTubeといったメディアが力を持ち、既存のマスメディアの力に頼ることなく個人が表現したものが広く世に認められるようになる。アマチュアの演奏家が録画したミュージックビデオがYouTubeで人気になり、やがてプロミュージシャンへの道が開けたり、個人のブログに編集者が目を付けて出版への道が開けたり。そうした表現の可能性が広く一般大衆に開かれたという意味で、確かに「総表現社会」ではあるのだけれど、そこに夢や希望を託すのはある意味でミスリーディングではないか?ということを東氏は言っています。
例えウェブの力でそうした可能性が広く開かれたとしても、成功への切符を手にするのはきわめて限られた人にしか過ぎず、その他大勢の人たちはどれほど創作活動に励んだところで社会的名声を得るといった意味での成功にはたどり着かない、と。
僕自身も、ウェブの進化は個人に上記のようなチャンスをもたらしている反面で、その他大勢に埋没する可能性をももたらしていると考えています。華々しい成功を夢見てこつこつとあYouTubeに演奏動画をアップしたり、小説をウェブ上に綴っていても、日の目を見ないままにそれ以外の自分の人生の可能性を失ってしまう人たちが生まれることを、「総表現社会」は当然の帰結として孕んでいるわけです。
成功すれば一般人が何回生まれ変わっても稼げないような収入を得られるというアメリカン・ドリームを夢見てスポーツの世界に入っても、そのうちで大多数の人は「その他大勢」のままで人生を終える。ベンチャービジネスでの成功を夢見る起業家の世界も、同じような構図になっています。そんな夢など見ずに、別の、もっと小さな成功を目指した方がずっと豊かな生活ができたのに、その可能性を失ってしまう。それは確かに悲しいことです。
ただ、それでもそこに「夢」があることは間違いない。そして、そうした夢がある社会の方が、ない社会よりも健全だし生きている人は楽しいだろう、というのが僕の直感です。だから、「その他大勢」になる危険を冒しても一歩を踏み出す人に対して、フェアにチャンスを提供する社会であってほしい。そのためのインフラとして、ウェブがあることは間違いない。
大切なのは、個人が自分自身の人生の一つ一つの岐路で選択をして行く時に、選び取った道でのリスクとリターンについて考えることではないかと思います。「その他大勢」に埋没する確率が99.9%であっても挑戦したい夢であるならば、やればいい。そこまでのリスクはとれないと考えるのであれば、少しリスクの度合いを下げれば良い(週末だけの活動にするとか、趣味にするとか)。
たとえ夢を追って失敗しても、それを誰も咎めたりしない。成功確率を高めるために別の道を選んでも、それを誰も咎めたりしない。各人が各人の選択を真剣に考えて決断し、それを各人が互いに尊重する。それが本当の意味での「フェアな社会」なのだと思います。

一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル

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ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる (ちくま新書)

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