慣れによる安定感と停滞の危険な罠について

今シーズン限りで中日ドラゴンズの監督を退いた落合氏の本をシーズン終了直後に読みました。その中で興味深かったのが、ともに守備の名手と言われた荒木・井端の2人の守備位置を監督命令で入れ替えたことに対する同氏の考え。すでに「名手」の域に達していた2人を、セカンドの荒木をショートに、ショートの井端をセカンドに。似ているように見えるこの二つのポジションは、動き方が真逆になるため切り替えはとても難しいとされているそうです。変更直後は当の2人も大いに戸惑い、不満を持つシーンもあったとか。
そんな選手の士気を損ないかねない状況での意思決定の背景にあったのは、

慣れていることによる安定感をとるか、慣れによる停滞を回避するか。

という選択。
結果として、

荒木は遊撃手(ショート)を経験することで、二塁手に戻っても遥かに優れたプレーをするはず。転換を経験したことで、荒木の守備は「上手い」から「凄い」に進化している。

という成果を得られたといいます。
僕個人としては、以前から企業における配置転換に疑問を持っていました。ある部署で経験を蓄積しているメンバーを別の部署に異動させることは、彼・彼女の蓄積したノウハウを他部署に伝播させるというメリットはあるものの、本人の士気が下がる危険、短期的に大きく組織の能力が低下する危険、さらには組織としての「知恵の蓄積」が断絶してしまう危険とも隣り合わせ。現状に不満を持っているメンバーが対象ならいざ知らず、脂の乗った活躍中のメンバーに対しては、異動は控えるべきでは?という思いがあります。
一方で、自分自身の経験を振り返ってみれば、いくつかの業界・仕事内容を大きくまたいだ転職を経験したことで、自分の視座・考え方、そしてスキルが大きく成長し幅広いものになったという実感がある。幸い僕の場合は誰かに強いられてキャリアパスを変えるということはなかったけれど、それが自分の意思であれ他人の意思であれ、こうしたパスの変更が成長につながることはどうやら間違いなさそう。
思えば、これは友人関係などの人間関係にも当てはまります。長年親しんだ友人とだけ付き合っていれば、お互いかって知ったる者同士だけに安定感があり、少々のことでは嫌われないという安心感があるからリラックスして付き合いができる。新しい環境に飛び込んで新しい友人関係や人間関係を作ろうとすれば、成長につながる刺激を受け取る見返りとして、「相手からどう思われるか?」といった不安に苛まれたり、劣等感を味わったりといった危険もつきまとう。
慣れによる安定と慣れによる停滞。この二つをバランスさせることが鍵になる、というのは簡単だけれど、実際のところをそれをどのレベルで行えばいいのか?を事前に納得いく形で判断するのは難しい。時には落合監督のように、「責任は自分がとるしかない」と腹をくくって、大きく不安定な賭けに出ることで新しいきっかけをつかむことがあるかも。
僕が自分自身に言い聞かせるのは、「慣れてきたな」とか「だいたいこういう感じでやれば大丈夫だろう」という「上級者の勘」みたいなものが働くようになったら、そろそろ腰を上げて新しい挑戦を始める時期だよということ。それは必ずしも仕事を変えるということではなく、新しい分野の勉強をする、新しい人的ネットワークを作る、といったことも含めて。

采配

采配

 読書メモについて 3.活用のしかた

前回までに書いたような形でEvernoteに保存した読書メモ(Evernote上で言えば「ノート」)ですが、そのまま保存しているだけでは何の役にも立ちません。もちろん「こんなに本を読んだんだなー」という自己満足のネタにはなりますが、それでは本来の意味は全くない。
スクラップブック(新聞や雑誌の切り抜きを貼る冊子)にしても、この読書メモにしても、後から見返して何らかのアウトプット・知的生産に活用してこそ、蓄積する意味があるわけですよね。
以前から紹介している梅棹忠雄氏の「知的生産の技術」の中には、この読書メモと同じ機能を果たすものとして「カード」が出てきます。同氏は、フィールドワークに出たときや、あるいは日常生活、そして読書の中で「面白い」と思った事柄について、何でも規格化された同一のカードに書き記しています。そして同氏曰く、そのカードを「くる」ことにこそ意味があるのだと言います。つまり、蓄積したカードをパラパラとめくりながら、新しい着想を得たり、構想を膨らませたりするわけです。
ここで紹介してきた読書メモについても、梅棹氏がカードを「くる」ように、パラパラと見返してアウトプットにつなげていくことでその存在意義が最大化されると思います。では具体的にどうやるか。
前回までのプロセスで、読書から得られた果実は当初「メモカード」として蓄えられ、その後に自分の考えたことやアイデアを書き加えて「思考カード」へと進化していくことをお話しました。ここでは、その「思考カード」を2つのアプローチでくっていきます。
一つは、何らかのアウトプットのテーマを決めて、それに関連するカードを見返して行くこと。例えば仕事上で何かのレポートを作成するとか、資料を作るといった場面を想定してみてください。仮にマーケティング関連のアウトプットをするのであれば、「マーケティング」タグや「戦略」タグ、はたまた「ソーシャルメディア」タグといった関連しそうなタグでノートを抽出し、それらを一つずつ見返して行きます。これまでに自分のアンテナに引っかかって来た事柄を再確認し、付加価値の高いアウトプットにつなげていく。
二つめは、テーマは決めず、ただ一定の時間を定めて、まさしくパラパラ見るというやり方。この時は「思考カード」タグだけで抽出します。当然かなりの数のノートが引っかかってきますが、これをざーっと見て行く。すでに中身を忘れていて、タイトルを見てもこれなんだっけ?と思うようなものは、中身を再読して確認する。すると、異なるテーマだと思っていたノート同士に面白いつながりが見えて来たり、それらを組み合わせるkとで新しいアイデアが生成できたりする。それを、さらに新しいノートにまとめていく訳です。
これら二つのアプローチを適宜組み合わせて活用すると、これまでの自分の知的蓄積をレビューしながら新しい価値あるアウトプットをしていくことができるのではないか、と思っています。

 読書メモについて 2.残し方

前回、読書をしながら同時並行で読書メモをデジタルツールでとっていく方法の話をしました。今回はその続きで、そのようにして取った読書メモをどのように残し、整理しておくかという話。これももちろん正解はなく、僕自身も試行錯誤なわけですが、現時点でこういう方法でやっていますという話。

読書メモについて1 取り方

本を読みながら、あるいは読んだ後にその本の中で見つけた「気になるフレーズ」や本に触発されて考えたことなどを「読書メモ」あるいは「読書ノート」として記録している人は多いと思います。メモには残さないまでも、気になった箇所に線を引いておき、後から見返すときの目印にするといった方法もあります。

僕はつい数年前まであまり熱心な読書メモ作成派ではなく、たまに線を引いてもそれっきり、特に見返すこともないという読み方たをしていました。ところが、あるとき本田直之氏の本の中に「レバレッジ・メモ」という読書メモについて書かれているのを読み、これはいい!と採用したものの、その「紙に印刷して持ち歩き、いつでも見直せるようにする」という方法が肌に合わなかったようで長続ききしませんでした。

読書を通じて学んだことを自分の血として肉として定着させていくために、読書メモについて考える必要が出てくるのは、どのような形で読書メモを1.取るか、2.残すか、3.活用するか の3つではないかと思います。

上記のとおりレバレッジ・メモをそのまま導入する方法がうまくいかなかったことを経験してから、いく度かの試行錯誤を経て、現在落ち着いているのは下記のような方法です。これは、先日も紹介した梅棹忠雄氏の「知的生産の技術」に紹介されているカードの考え方を参考にし、クラウドサービスのEvernoteと組み合わせることで自分なりの形にしたものです。

今回は、まずはメモの取り方の部分について書きたいと思います。

メモの取り方

基本的には、読みながらデジタルデータで作ってしまう。具体的には、読書しながらメモしたい内容に出会ったときには、手元のiPhoneEvernoteにメモしてしまう。FastEverといった、スピーディーにノートを作成・アップロードできるアプリもありますので、それほど読書を中断せずにメモが取れます。

手元にデジタル入力のできるツールがない場合や、文字入力が難しい環境にいる場合、紙にメモをとるか、ページに目印をつけるなどしておき、後からデジタルデータに変えて入力する。

その際のポイントは、一項目について一つのメモにすること。以前は一冊につき一つのメモとしてまとめていましたが、これだと後述する「読書メモの活用」がうまくできないことがわかったのです。一項目につきメモ一つですから、一冊を読了した時にいくつものメモができふことになります。(Evernoteの場合、いくつものノートができる)

著作ごとに共通のタグをつけておけば、後からその本についてのメモを一覧することもできるので、問題ありません。

また、本に書いてあることをそのままメモした場合には「メモ」、自分のアイデアや考えを書いた場合には「思考」といった具合にタグをつけておくと、著者の考えたことなのか、自分が考えたことなのかの区別をつけることができます。

他にもタグ付けはいろいろできると思いますが、僕は現時点では、本のタイトル、メモなのか思考なのか、という二種類で整理しています。

こうして本を読みながらデジタルメモを作り、タグ付けも同時進行で行うことで、読了した時には一通りの読書メモが作られてある程度は整理されている環境を作ることができます。

 総表現社会の夢

年末年始に手に取った本の中に、東浩紀氏の「一般意思2.0」がありました。その中に、梅田望夫氏の著書「ウェブ進化論」の中の記述を引き合いに出されている箇所があります。「総表現社会」についての部分です。
ウェブ2.0への進化にともなって、ブログやYouTubeといったメディアが力を持ち、既存のマスメディアの力に頼ることなく個人が表現したものが広く世に認められるようになる。アマチュアの演奏家が録画したミュージックビデオがYouTubeで人気になり、やがてプロミュージシャンへの道が開けたり、個人のブログに編集者が目を付けて出版への道が開けたり。そうした表現の可能性が広く一般大衆に開かれたという意味で、確かに「総表現社会」ではあるのだけれど、そこに夢や希望を託すのはある意味でミスリーディングではないか?ということを東氏は言っています。
例えウェブの力でそうした可能性が広く開かれたとしても、成功への切符を手にするのはきわめて限られた人にしか過ぎず、その他大勢の人たちはどれほど創作活動に励んだところで社会的名声を得るといった意味での成功にはたどり着かない、と。
僕自身も、ウェブの進化は個人に上記のようなチャンスをもたらしている反面で、その他大勢に埋没する可能性をももたらしていると考えています。華々しい成功を夢見てこつこつとあYouTubeに演奏動画をアップしたり、小説をウェブ上に綴っていても、日の目を見ないままにそれ以外の自分の人生の可能性を失ってしまう人たちが生まれることを、「総表現社会」は当然の帰結として孕んでいるわけです。
成功すれば一般人が何回生まれ変わっても稼げないような収入を得られるというアメリカン・ドリームを夢見てスポーツの世界に入っても、そのうちで大多数の人は「その他大勢」のままで人生を終える。ベンチャービジネスでの成功を夢見る起業家の世界も、同じような構図になっています。そんな夢など見ずに、別の、もっと小さな成功を目指した方がずっと豊かな生活ができたのに、その可能性を失ってしまう。それは確かに悲しいことです。
ただ、それでもそこに「夢」があることは間違いない。そして、そうした夢がある社会の方が、ない社会よりも健全だし生きている人は楽しいだろう、というのが僕の直感です。だから、「その他大勢」になる危険を冒しても一歩を踏み出す人に対して、フェアにチャンスを提供する社会であってほしい。そのためのインフラとして、ウェブがあることは間違いない。
大切なのは、個人が自分自身の人生の一つ一つの岐路で選択をして行く時に、選び取った道でのリスクとリターンについて考えることではないかと思います。「その他大勢」に埋没する確率が99.9%であっても挑戦したい夢であるならば、やればいい。そこまでのリスクはとれないと考えるのであれば、少しリスクの度合いを下げれば良い(週末だけの活動にするとか、趣味にするとか)。
たとえ夢を追って失敗しても、それを誰も咎めたりしない。成功確率を高めるために別の道を選んでも、それを誰も咎めたりしない。各人が各人の選択を真剣に考えて決断し、それを各人が互いに尊重する。それが本当の意味での「フェアな社会」なのだと思います。

一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル

一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル

ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる (ちくま新書)

ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる (ちくま新書)

 自分にとっての「航海日誌」としてのブログについて

これまでかれこれ10年近くにわたってブログを書いて来て、毎日書き続けた時期もあれrば数ヶ月全く更新しない時期もあり、のらりくらりとやって来たなというのが実感です。それでも振り返ってみると、頻繁に書き綴っている時期の方がそうでない時期よりも知的な充足感は高かったという実感があります。やはり、続けている時に出ている「知的慣性力」は心地いいですね。これからもそうありたいものです。
そんな中で、ブログや日記を書いて行く上でのポイントになりそうな考え方を僕なりにまとめてみます。

①生活の中でブログのネタになりそうなものに出会ったら、メモをとるなりして記録する
書こうにもネタがない!という状態は苦しいです。でも、生活の中でお、「いいね!」と感じたものを意識的に集めていると、実はけっこうたくさんの「いいね!」に出会っていることに気づきます。それをどこかに記録しておいて、書くときにそれらを拾い集めながら自分の頭の中に生まれた思いや考えを綴って行くことで、いつしか自分なりの文章が出来上がっていることが多い。

②あまり推敲せずに、だーっと書く
Webに公開する文章だけに、いろいろと推敲を重ねたり考えを練り上げたりしようと思ってしまうのが人間の性です。でも、これをやると膨大な時間をブログに割くことになる上に、内容がつまらなくなります。というのも、考えれば考えるほど、「一般的に差し障りのない、ありがちな論理展開」になってしまうから。
勢いでだーっと書いた方が、多少は論理に矛盾があろうが飛躍があろうが、自分らしい考えが表に出てくる気がします。本格的に論文にまとめるとか、人に発表するとかいうタイミングで、論理構成などは修正すればいい。

③アクセス数や他人の評価は気にしない
ブログをブランディングツールとして使う著名人やコンサルタントなら別ですが、個人が個人のために書くブログであれば、アクセス数や評価を気にした内容・文章にする必要はありません。あくまでも「自分自身への手紙」「自分の人生の航海日誌」という位置づけで粛々と続けて行くことでしょう。
でも、親しい周囲の友人などからたまにフィードバックがもらえると嬉しいものなので、Facebookにリンクをはるくらいはしてもいい。要は、他人からの評価を得ることが目的化しないようにすることです。

④時おり読み返してみる
「自分への手紙」「人生の航海日誌」なので、時おり読み返してみるとすごくいい。自分の考えの軌跡だったり、その当時に関心を寄せていたテーマだったりが浮き彫りになり、自分の今後の人生航路を考えるのにも示唆を与えてくれます。

「航海日誌」を書くという考えは、先日読み返してはっとした梅棹忠雄「知的生産の技術」に出て来た用語です。

知的生産の技術 (岩波新書)

知的生産の技術 (岩波新書)

人生という航海をする船の船長になったつもりで、その責務として日誌をつける。そう考えると、何だかやる気も湧くというものです。

 書くことが自分を確かなものにする

酒井譲さんのブログNED-WLTにこんな記事がありました。
書くことは、僕だ。それは、新しい自分を獲得するための大切な方法として。 : NED-WLT
この「手が勝手に動く」という感覚は僕もとてもよくわかります。文章を書いているうちに、頭と手が連動しているような錯覚に陥りながら、自分が頭の上の方で考えていたこと・書こうと思っていたこととは違った、何というか「頭の下の方」に隠れていたような内容が表面に浮かび上がって、手を通じて文章になっていく感じ。
中学・高校生の頃によく作文の課題がありました。採点の厳しい先生だったこともあり、教室のみんなは作文の課題が出ると嫌がったものですが、僕はいっこうに構わなかった。テーマが決まらないままに提出前日の夜を迎えても、焦ることはなかった。というのも、書き始めればいつの間にか考えが沸き上がり、手を伝って原稿用紙を埋めて行ってくれる「あの感覚」を知っていたから。
大人になってみると、実はそういう「あの感覚」が個人の知的生産にとってとても大切なんだとわかることになったのだけれど、「書くという行為」を強制されることの少ない環境に身をおくといつの間にか「あの感覚」の手触りとともに、そのかけがえのなさも忘れてしまったりする。「頭の下の方」にある考えを形にしていくことが、実は自分を確かなものにしていくことにつながるというのに。
文章を書くということが職業上とくに必要とされない人間にとっては、「自分に約束する」形でしか書く時間を確保することはできないので、僕を含めた多くの人にはブログや日記を習慣化するのが一番の近道ということになると思う。Twitterでは少し短すぎて文章が沸き上がる手前で140文字が終わってしまう。
まあ要するに何を言いたいかというと、ブログをちゃんと書いていこうと思いました、ということ。