走るということ
今日は久しぶりに有休をとってのんびりと・・・、と思っていたのですが、終わってみれば自転車30km、水泳1200mとトレーニング日となっていました。少しはクロールが上達したかな?というのが成果です。会社を休んだのに疲れてどうする?と言われてしまいそうですが、両者の疲労は本質的に別のものです。
- 作者: 村上春樹
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2007/10/12
- メディア: 単行本
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小説家として生きていくために肉体を鍛える、その手段として「走る」ことが存在していると著者は語っているけれど、この本を読む限りそうした「手段」にとどまらない「走る」ことへの思いが著者にはあると感じます。
それは、身体との対話の中から見出される不思議な感覚。
筋肉は覚えのいい使役動物に似ている。注意深く段階的に負荷をかけていけば、筋肉はそれに耐えられるように自然に適応していく。「これだけの仕事をやってもらはなくては困るんだよ」と実例を示しながら繰り返して説得すれば、相手も「ようがす」とその要求に合わせて徐々に力をつけていく。もちろん時間はかかる。無理にこきつかえば故障してしまう。しかし時間さえかけてやれば、そして段階的にものごとを進めていけば、文句も言わず(ときどきむずかしい顔はするが)、我慢強く、それなりに従順に強度を高めていく。「これだけの作業をこなさなくちゃいけないんだ」という記憶が、反復によって筋肉にインプットされていくわけだ。
そして、レースにおいてはもっと違った感覚を著者は感じています。それは人生を少しなりともよくしていく方法論として、僕には共感できました。僕が自転車に乗り、レースに出たり坂を上ったりするときに感じるのは、おそらくこういう種類の感覚なのでしょう。
個々のタイムも順位も、見かけも、人がどのように評価するかも、すべてあくまでも副次的なことでしかない。僕のようなランナーにとってまず重要なことは、ひとつひとつのゴールを自分の脚で確実に走り抜けていくことだ。尽くすべき力は尽くした。耐えるべきは耐えたと、自分なりに納得することである。そこにある失敗や喜びから、具体的なーどんなに些細なことでもいいから、なるたけ具体的なー教訓を学び取っていくことである。そして時間をかけ歳月をかけ、そのようなレースをひとつずつ積み上げていって、最終的にどこか得心のいく場所に到達することである。あるいは、たとえわずかでもそれらしき場所に近接することだ(うん、おそらくこちらの方がより適切な表現だろう)。
もし僕の墓碑銘なんてものがあるとして、その文句を自分で選ぶことができるのなら、このように刻んでもらいたいと思う。
村上春樹
作家(そしてランナー)
1949-20**
少なくとも最後まで歩かなかった