サウダーデ

ふと立ち寄った書店で目に留め、衝動的に買ってしまった本が予想以上の良書である、という経験を最近多くしています。今回もその一例。

数学者の休憩時間 (新潮文庫)

数学者の休憩時間 (新潮文庫)

先週末に自転車で水道橋のカフェに出かけ、閉まっていたので仕方なく時間つぶしに入った書店。そこで見つけた本でした。数学に対するアレルギーは社会人になって数字を扱うようになってから薄れてきてはいるもの、依然として二等辺三角形や平行四辺形を見ると鳥肌が立つ(もちろんウソ)僕にとって、「数学者」と呼ばれる人々ほど親近感のないヒトはいないのでした。そう、「黒魔道士」とか「スライムナイト」といった職業くらい疎遠といってもいいくらい。
そんな数学者の書いた本、ということ意識的に手に取ったというわけです。(実は最近、自分とはあまり関わりのない分野の本を意識的に読むようにしています。)
ところが、作家・新田次郎を父に持つ著者だからなのでしょうか、あるいは「論理の出発点には豊かな情緒がなくてはならない」と考える人物だからなのでしょうか。その紡ぎ出されていく文章にどんどんと引き込まれていくのを肌で感じる、久々に出会う良質なエッセーでした。
内容はとても多様性に富んだもの。妻の出産にまつわる圧倒的な描写から始まり、数学と論理性(数学が論理性を育むという主張への疑問提示)、日本の教育、幼い頃の記憶など。そして最後が「父の旅 私の旅」と題された長編でした。
父である新田次郎が最後の、そして最大の情熱をかけて執筆しながら、ついに完成を見ることなく終わった小説「孤愁 サウダーデ」。その取材旅行で父が2週間にわたって訪れたポルトガルの地を、息子である著者がその取材ノートとともに丹念に再訪する旅の記録。突如として世を去った最愛の父に対する溢れんばかりの愛情・寂しさ・憤怒がほとばしり、家族への強烈な思いとなって昇華されていく過程が、不器用な男心とともに記されています。
小説の主題となっているサウダーデという言葉について、こんな風に書かれています。

サウダーデというのは、ポルトガル人特有の感情を表す言葉として、よく引用されるものである。対応する日本語や英語はないが、「愛する人やものの不在により引き起こされる、胸の疼くような、あるいは甘いメランコリックな思い出や懐かしさ」、と言われている。望郷、懐かしさ、会いたいが会えない切なさ、などはみなサウダーデである。単なる悲哀ではなく、甘美さと表裏一体をなしているのが、この言葉の特色である。

そして、著者は父と同じように、かの地で出会う人々に、「あなたにとってのサウダーデとは何ですか?」と問いかけ続けるのでした。父は小説の主人公モラエスのサウダーデを追いかけてポルトガルを訪ね、息子は父のサウダーデを求めてポルトガルを旅する。悲しく、甘く、そして激しい2週間の記録がそこにありました。
ポルトガル人の持つ情緒豊かな感性は、かつての日本人に類似するといいます。我々の心にも必ず、そんな甘美な思いが宿っているのでしょう。
「あなたにとってのサウダーデとは、何ですか?」