総表現社会の夢

年末年始に手に取った本の中に、東浩紀氏の「一般意思2.0」がありました。その中に、梅田望夫氏の著書「ウェブ進化論」の中の記述を引き合いに出されている箇所があります。「総表現社会」についての部分です。
ウェブ2.0への進化にともなって、ブログやYouTubeといったメディアが力を持ち、既存のマスメディアの力に頼ることなく個人が表現したものが広く世に認められるようになる。アマチュアの演奏家が録画したミュージックビデオがYouTubeで人気になり、やがてプロミュージシャンへの道が開けたり、個人のブログに編集者が目を付けて出版への道が開けたり。そうした表現の可能性が広く一般大衆に開かれたという意味で、確かに「総表現社会」ではあるのだけれど、そこに夢や希望を託すのはある意味でミスリーディングではないか?ということを東氏は言っています。
例えウェブの力でそうした可能性が広く開かれたとしても、成功への切符を手にするのはきわめて限られた人にしか過ぎず、その他大勢の人たちはどれほど創作活動に励んだところで社会的名声を得るといった意味での成功にはたどり着かない、と。
僕自身も、ウェブの進化は個人に上記のようなチャンスをもたらしている反面で、その他大勢に埋没する可能性をももたらしていると考えています。華々しい成功を夢見てこつこつとあYouTubeに演奏動画をアップしたり、小説をウェブ上に綴っていても、日の目を見ないままにそれ以外の自分の人生の可能性を失ってしまう人たちが生まれることを、「総表現社会」は当然の帰結として孕んでいるわけです。
成功すれば一般人が何回生まれ変わっても稼げないような収入を得られるというアメリカン・ドリームを夢見てスポーツの世界に入っても、そのうちで大多数の人は「その他大勢」のままで人生を終える。ベンチャービジネスでの成功を夢見る起業家の世界も、同じような構図になっています。そんな夢など見ずに、別の、もっと小さな成功を目指した方がずっと豊かな生活ができたのに、その可能性を失ってしまう。それは確かに悲しいことです。
ただ、それでもそこに「夢」があることは間違いない。そして、そうした夢がある社会の方が、ない社会よりも健全だし生きている人は楽しいだろう、というのが僕の直感です。だから、「その他大勢」になる危険を冒しても一歩を踏み出す人に対して、フェアにチャンスを提供する社会であってほしい。そのためのインフラとして、ウェブがあることは間違いない。
大切なのは、個人が自分自身の人生の一つ一つの岐路で選択をして行く時に、選び取った道でのリスクとリターンについて考えることではないかと思います。「その他大勢」に埋没する確率が99.9%であっても挑戦したい夢であるならば、やればいい。そこまでのリスクはとれないと考えるのであれば、少しリスクの度合いを下げれば良い(週末だけの活動にするとか、趣味にするとか)。
たとえ夢を追って失敗しても、それを誰も咎めたりしない。成功確率を高めるために別の道を選んでも、それを誰も咎めたりしない。各人が各人の選択を真剣に考えて決断し、それを各人が互いに尊重する。それが本当の意味での「フェアな社会」なのだと思います。

一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル

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ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる (ちくま新書)

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