国とか国家とかいう概念が「どうでもいいかも」と思えてくるんです

どこもかしこも、「グローバル」というのがキーワードになってきているみたいです。僕が以前に仕事をしていた人材育成の業界でも、ここ1年くらいで猛烈な勢いで「グローバル人材の育成」がテーマになり、どの企業も力を入れるようになってきています。いま身をおいている製造業の世界でも、とにかく「海外へ、さもなくば死」というような、ある種の悲壮感にも似た感情が支配力を持って来ているのを感じます。

日本では、どうも国境というものが強烈に意識されるケースが多いようで、旅行も「国内か海外か」、人間も「日本人か外人か」、事業も「国内事業か海外事業か」といった形で、国内か海外かの二元論で語られることがとても多い。

そうした背景には、日本という国が良くも悪くも均質的で、外国の言語や文化との融和が進みにくい環境にあること。また外国語を話せる人が少なく、何をするにしても「内か外か」を意識せざるを得ない状況にあることがあるのでしょう。日本列島と世界とを隔てる海の存在も大きいでしょうね。

いまこんな本を読んでいます。正直、「目からウロコ」の一冊です。中学校高校で学んだ世界史というものがいかに定住型の文明・農耕型の文明に偏った視点で描かれたものであったかということを感じるし、ある種の危機感を覚えさえします。これまでの歴史認識・世界観は何だったんだろう?と。

歴史はその時代を生きた人たちが書き残した記録を元に、後世に生きた人の手で人為的に再現され認識されたものであって、そのままの事実ではありません。特に、文書での記録をほとんど残すことのなかった遊牧民たちの活動については、いかにその世界史に与えた影響が甚大であっても、軽視あるいは曲解されて後世に伝えられることが多い。それを鵜呑みにして歴史認識を構築することは、著しく偏った目線で歴史と世界とを捉えることになりかねない。そんな観点に立って、この本はあえて遊牧民の活動にフォーカスし、彼らの活動を基軸として世界史を綴っていきます。

遊牧民は定住しない。馬に乗り、家畜を連れて動き回る。だから、彼らの作った大帝国(日本でもよく知られている、匈奴モンゴル帝国など)も、今でいう「国」という概念とはずいぶんと違い、国境なんていう考え方はとても曖昧なものだった。それに、モンゴルという巨大帝国に暮らす人たちは多様な言語や血統をもった人たちで、「モンゴル人」という概念も曖昧なもの。モンゴル=騎馬民族の文明という捉え方をされるけれど、モンゴルの領域内には農耕をしている人もいれば商業をしている人もいたし、狩猟民もいた。みんなひっくるめてモンゴル人だったわけです。

考えてみれば、○○人とか国境線なんていうものは、ここ数十年のとても新しい歴史の中で、西欧が生んだ国民国家という考え方が世界的に広まっていく過程で生まれものなんですよね。それまでは、「国」というのは遊牧民に限らずあまり意識されることのない枠組みだったし、そもそも国境線なんて存在していないケースがほとんどだった。

というわけで、僕たちも日頃からあまり「日本か外国か」といった二元論を意識せず、遊牧民的に良い意味でぼんやりとした国の概念の下に暮らすほうが、よほど自由で可能性に満ちたものになるんじゃないかと思うわけです。昔の人はみんなそうだったんだから。
Kazuteru Kodera