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小説を読む 魔法の絨毯と表現の形

とても久しぶりに小説を読み始めました。もちろんフォトリーディングは使わず、一字一字をゆっくりと読み進めて行く読書。昨日書いた通り、「物語」というものの持つ力について考える日々の中で、愛してやまない物語、特にそれを文章で綴った小説というものに、きちんと向き合いながら触れたいと考えたからです。
今は、「クォンタム・ファミリーズ」という小説を読んでいます。ところどころ、気に入った表現や考えさせられる文章に付箋を貼付けながら、ゆっくりとゆっくりと。これは「情報を得る」ことが目的の読書ではなく、純粋にその物語とその表現形式としての文章を楽しむための読書として。
かつて僕にとって小説は、自分を別の世界に連れて行ってくれる魔法の絨毯のようなものでした。表紙を開いてページに印刷された文字を追って行くだけで、自分はこの世とは違った世界へ瞬く間に連れて行かれ、そこで様々な冒険や恋愛や、時に切り裂かれるような悲しみや喪失を経験する、そんな存在でした。
今もそんな魔法の絨毯としての小説は僕の中に生き続けているし、これから出会ういくつもの物語がそのような存在となってくれることも多いと思います。と同時に、大人になった僕は小説というものの別の顔をも見ています。
それは、小説の書き手がその絶え間ない思考と感情の連鎖とを「何かの形で表現したい」と切に願った末の「表現の形」としての小説。必ずしもそれは教訓話や説話のようなものを意味しません。筆者が心の中に蓄えた数多の言葉を、ほとんど意味のない物語に乗せてひたすらに書き綴るというのもまた「表現の形」。
大人になって、僕はおそらく書き手であるところの筆者を、一人の対等の個人として見るようになったのでしょう。かつての「魔法の絨毯の製作者である遠い世界の住人」としてではなく。
一人の個人として眺めたとき、彼や彼女の綴る文章の一節一節、文字の一つ一つに自分を投射し、「何が彼/彼女にこの言葉を綴らせたのか」に思いを巡らせるようになった。それがこの小説観の原点です。
不思議なのは、魔法の絨毯としての小説と同じように、表現の形としての小説もまた、強く心を動かすものであるということです。それは、筆者の表現を通じてその思考や感情の一端に触れることができるからなのかもしれません。「この表現はこういうこと」と説明づけることなどできないけれど、何かそこには「感じる」ものがある。
最も素晴らしいのは、魔法の絨毯に乗りながら、一人の大人として筆者と対峙し、その思考や感情の片鱗に触れること、なのかもしれません。あるいは、そうではないのかもしれません。どうもつかみ所のないようだけれど、そうした不思議な世界をこの目の前に現出させる力を持った小説という表現が、僕はやはり好きなのです。
Kazuteru Kodera

クォンタム・ファミリーズ

クォンタム・ファミリーズ