物語を力に変えて

大学院での学びや普段の仕事、これはとてもロジカル(論理的)で左脳的なものです。コツコツと論理を積み上げて行き、そこに誤謬がないことを文章や図表を使って他者に説明をする。まだ未熟なので、そこに「一片の隙もなく」と言うことはできないけれど、左脳的な「隙のなさ」というのを求められる領域であることは確か。
それに対して、僕自身の中に本源的に眠っている、あるいは目を瞑ってはいるが耳を澄ましているのが、物語を求める感性であり右脳的な知的活動力です。受け手の心を躍動させ、時には悩み沼の淵に追いやり、あるいは温かく励ます。そんな物語を求める心があるのです。
論理性と物語性の間には、似ているところもあれば似ていないところもあるでしょう。前者を「隙がない」と表現したのに対して、後者はどこか曖昧さを包含し、それでいながら矛盾についての指摘を柔らかく包み込んでしまうような靭やかさがある。
最近ずっと、物語を力に変えるということについて考えています。力にはいろいろな解釈ができるので、いろいろな力について考えています。
コツコツと論理を構築していく作業は楽しいものだけれど、僕自身の源に蓄えられている泉のようなところにある何かは、やはり物語性を求めている。だからそれに素直になってみよう、というわけです。
朝食前のダイニングテーブルにて Kazuteru Kodera