責任放棄の悪しき連鎖 子どもの教育に潜むアウトソースの罠

日本の小学校が荒れているといった話を聞くようになってから随分と年月が経ちました。ゆとり教育が悪いとか、教師のレベルが低いとかと言い立てられてはいますが、一向に状況が改善する兆しはないようです。むしろひどくなってさえいる。どうしてでしょう?
学校の荒廃がどんなにカリキュラムや教師を変えても直らないのはなぜか。それは、問題の本当の原因が学校にはないからです。原因のないところにどんなに手を加えても、解決にはつながりません。では一体どこに原因があるのか。それは家庭です。
企業がアウトソーシングを活用することのメリットを以前に紹介しました。でもそこには当然デメリットもあります。だからアウトソーシングの決定には注意を払わなければなりません。どんなデメリットかというと、アウトソースした業務に責任を持つ人が社内にいなくなることです。責任を持つ人がいないと何が起こるかというと、パフォーマンスが低下しても誰もアクションをとらなくなります。「これは自分の仕事だ!」と腹をくくって真正面から取り組む人がいないからです。
子どもの教育に起こっているのは、まさにこんなアウトソーシングの悪しき事例です。
まず、父親が子どもの教育を母親にアウトソースします。「忙しいから、家のことは任せたぞ」てな訳ですね。そして母親はというと、今度は学校や塾にそれをそのままアウトソースします。確かに学校や塾は教育のプロだとされていますから、母親としては安心して任せたつもりです。
こんなアウトソースの連鎖が何をもたらすかといえば、企業と同じです。責任を持って真剣に子どもの教育に取り組む人が、いなくなるのです。学校は?確かに彼等は教育のプロで、母親からアウトソースを受けました。でも、学校には本当に子どもに授けるべき教育を残らず提供できる能力があるでしょうか?答えはノーです。ありません。ありませんし、学校に全てを求めるべきでもありません。彼等は他人、ましてや1対多の限られた接触時間の中で子どもに対応しているにすぎないのです。
最後のアウトソース先がその業務を行う機能を持っていないにも関わらず、「任せたぞ」の連鎖で集団無責任が発生している。犠牲になるのは子どもです。
家庭にとって、子どもを教え育てるのはコア中のコアのはず。そんな仕事をアウトソースすべきではありません。
子どもを育てるのは自分達。学校は親の役割を補完する存在。そんな認識を持つ人が増えて行くことで、学校の荒廃は止まるのではないか、そんな風に考えています。
Kazuteru Kodera