圧倒的な存在

東京国立博物館で20日から始まった「レオナルド・ダ・ヴィンチ 天才の実像」展に出かけてきました。フィレンツェウフィツィ美術館からやってきたダ・ヴィンチ初期の傑作『受胎告知』をメインに、彼の生涯や業績、そして何より、彼独自の考え方・世界観を現す品々がボリュームたっぷりに展示された特別展。

正直なところ、絵画というものにはこれまで全く興味などなく、美術の成績はいつも「2」。教科書で見る名画の数々にも、「ふーん」程度の感想しか持たなかったわたくし。何故突然に見に行く気になったのか。よくわかりません。「本当の知性は常に総合的なものである。それはダ・ヴィンチの絵画を見ればわかる」といった話をどこかで聞いたのが契機かもしれないし、写真の世界に魅せられるようになったのが遠因かもしれません。今となってみれば、どちらでもいいこと。
暗く照明の落とされた展示会場内にただ一枚だけ浮かび上がる『受胎告知』は、遠くから目を向けただけでその存在感が「際立っている」と思わせる不思議な雰囲気を持っていた気がします。初めて目にする本物の名画。長い行列(開催初日から間もない休日ということで、凄まじい混雑ぶりでした)を抜けて目の前に立った時の、その圧倒的な存在感・・・。
全くの初めての経験でした。とにかく、「これをずっと見ていたい」と思わせる強烈な吸引力を、その絵は持っていました。絵画史においてそれがどれほど画期的な作品か、とか、どれほど技巧的に優れているか、という話を僕はほとんど知りません。そうした「文脈」を知ることがなくても、ただ、ただただ「見ていたい」と思わせる。それを見ている間は、魂がふと力を抜いて「いいよ、ただ見ているだけで」と全身の余計な力を奪い去っていくような、不思議な力。
後で見た、デジタル技術で再生されたというレプリカでは全く、本当に全く感じることのなかった力が、その一枚には宿っていました。「いた気がします」ではなく、「いました」と断言してしまえる確信を伴った感覚・・・。
ふとした契機でそうした経験に出会えたことの幸運に、感謝してやみません。混雑の中、ゆっくりと見ることは許されない環境だったとはいえ、上から下、右から左、斜め上から斜め下、と、とにかく「見る」という行為に没頭した数分間。魂は、揺さぶられていたのではなく、深く安堵させられていたという感覚でした。
そうした凝縮した数分間を過ごした後だったからでしょうか、あるいは余りの混雑のせいでしょうか、第二会場の展示(つまり『受胎告知』以外の展示)ではほとんど集中力が残っておらず、早々にリタイア。それでも心は完全に満たされて、¥2,000もする展示解説を嬉々として購入(どんなに感動した映画でもパンフレットを買うことなどまずない僕が・・・)し、次回の来場に備える決意を固めました。

次回は、ゆっくりと解説を読んだ後に訪れようと思います。「文脈」の中から改めて『受胎告知』とその他の手稿などを眺めたとき、一体どんな感覚が去来するのか、今からとても楽しみにしています。