社長はなぜ運転手付きの車で移動するのか その2 日本の「よき経営者」

前回の記事は、「階層主義的な文化の下では、組織の幹部は権威ある存在でなくてはならないから、相応の車(運転手付きであることも含めて)に乗ることを求められる」という話でした。

もう一つ別の視点として議論になりそうなのが、「経営者とは、かくあるべし」という経営者論(?)とでも言うべきもの。今日はそちらの話です。

日本では、大企業のトップや創業者が「フツーの人」であることが喜ばれます。ユニクロの服を着ていたり、牛丼チェーンでランチをしていたり、飛行機の座席がエコノミークラスだったり。

中でもテレビなどでよく紹介されるのが「電車通勤」。満員電車に新聞片手に乗って、ラッシュ時間帯に出社して来る、という様子が、偉ぶらず、常に社員と同じ目線で考える愛すべき経営者の姿として紹介されるのを何度も見たことがあります。

逆に、長距離の移動はいつもプライベートジェット、運転手つきのリムジンで通勤していて宿泊はいつもスイートルーム、というような経営者が前向きに紹介されることはほとんどありません。民放テレビ番組で面白おかしく紹介される、あるいは羨望と嫉妬混じりに紹介されるのが関の山でしょう。

こうしたテレビ等での取り上げられ方からすると、ここには明確に「よき経営者の姿」という型があるようです。前者はそれに該当し、後者はそうではないという価値基準が日本社会に広く共有されている(一応テレビは日本人の広範の人が見ているという想定で)。

前回紹介した異文化理解の観点では、日本は「階層主義的」な文化に分類されています。ただし、こと経営者・組織のトップに関しては例外のようで、庶民的な姿が愛される。これは意外です。

敗戦によって社会上層部・指導者層への信頼が一挙に崩れ落ちたこともあるでしょう。戦前は「華族」はもとより「旧士族」も含めて士農工商から引き継がれた社会階層が色濃く残っていはずです。それらが、敗戦という大ショックによって吹き飛んだ。結果として、文化的には「階層主義的」なものを根底に残しつつ、表面的には「平等主義的」要素が取り込まれていったと見ることができるように思います。

もしかしたら水戸黄門暴れん坊将軍などの人気時代劇も、そうした新しい価値観の刷り込みとして「庶民派の偉い人」というリーダー像を作り上げたのかもしれません。

こうした社会的なある種の要請を踏まえてか、企業幹部が運転手つきの車に乗るのは「安全上の理由」とされることが多いようです。プロの運転手に任せた方が危険が少ない、万一の事故の際に会社の責任問題になりにくい、ということでしょう。だから別に偉ぶってるわけではなく、仕方ないんだよ、と。しかし、であれば休日も含めて本人の運転は禁止しなくてはいけませんが、そういう話は聞きません。どこか、本質的な意味を取り違えているような気がします。これについては、次回書いてみたいと思います。