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 日本の製造業にまつわる壮大なファンタジーについて

ここ数日は主に工場で仕事をしていました。これからも、工場で過ごす時間は長くなる予定です。そんな訳で、「日本といえば製造業、ものづくりの国でしょ!」というよく言われる話について考えてみようかなと思います。
結論から言うと、僕は個人的にこの「日本=ものづくり」という話には全く同意していません。同意していないどころか、政治家やマスメディアがこうした論調をあおるせいで日本人のイメージが固定化され、ずいぶんと被害を蒙っているとすら感じています。特に、「誰にも真似のできない職人の技が日本の強さ」などと言われると、少し唖然としてしまいます。
確かに、日本製の電化製品や自動車が世界を席巻し、Made in Japanが本当の意味でのブランドだった時代は長かったと思います。世界の多くの人が日本製のモノに憧れたわけです。なぜか?
日本がブランド化した理由は、その「安定した品質」ではないでしょうか。つまり、「異常なくきちんと動く」。上記のとおりマスメディアは「日本=ものづくり」をあおるのが大好きなので、今でもMade in Japanを信奉する海外の方をインタビューしたりしていますが、そうした人々が口を揃えて言うのは「長く使っても壊れない」「過酷な環境でもきちんと動く」という話ばかり。ブランドはブランドでも、イタリアの衣料品やスイスの時計などとは全く違う理由でMade in Japanがブランドを確立していたことがわかります。それは、「イレギュラーがない」ことに起因するブランドだったわけです。
では、時代が改まって現在、そうした「イレギュラーがない」ことについて世界はどのように変わっているか。考えてみれば明らかで、「そんなの当たり前」という環境になっている。僕がこのブログを書いているMacbookは台湾の会社が中国で作った製品ですし、家庭内の電化製品のほとんどは海外で作られていますが、壊れたり異常な動作をすることなどありません。「そんなの当たり前」なんです。
「イレギュラーがない」ことというのは、「できて当たり前」の次元に到達してしまうとそれ以上の進歩がない領域です。一歩一歩努力を積み重ねて高みを目指せば、誰しもがいつかは到達するし、到達したらみんな同じレベルになる。一方、美しいスイスの時計やおしゃれなイタリアのファッションには「上限」などというものはありません。美しさや洗練された感性というのは、一歩一歩レベルを上げて行くという種類のものではない。だから、「追いつかれる」こともないし「追い抜かれる」こともない。
現在、製造業の大半はデジタル化され、またマニュアル化されています。「誰にも真似のできない職人技」というのはきわめて限られた一部の領域に残っているだけで、そのほとんどはデジタル技術で安定的に作り出せるレベルになっている。そうした一部の職人技だって、勉強熱心なアジアの若者たちがどん欲に習得していっている。日本の勤勉な労働者が丁寧な作業によって生み出した安定品質も、今では自動化とマニュアル化によって誰でもできる「当たり前」になっている。
かつての日本の技術は、ライバルたちの猛烈な学習とレベルアップによって、とっくに「当たり前」になっているのです。それを後押ししたのは、デジタル技術であり、また日本自身が押し進めた作業の標準化という考え方でしょう。
だから今なお「日本=ものづくり」といったイメージを吹聴するのは、意味がないどころか有害だと思うのです。世界で「当たり前」になった水準をあたかも神聖なる領域かのように扱うのは、ファンタジーを通り越して信仰です。はっきりと「日本の製造業がかつて誇った優位性はもはや存在しない」と認識して、その上で何をどう構築していくのかを考えなければいけません。
もちろん、製造業の中にも依然として日本が世界を圧倒している分野はあります。それは主にデジタル化されない領域。品質に影響を与える要素が多数存在して、コンピュータでは最適値を割り出すことができないような分野など。そうした技術領域に強みを持つ個々の企業レベルでみれば、過去の経験の蓄積を活かして当面は戦いを優位に進めることができるでしょう。ただ、こうした領域はとても狭く、またデジタル技術の進歩により、年々狭くなって行くということを忘れてはいけません。