共感スイッチの感度の強さと弱さ、範囲の広さ/狭さについて

たまたま海外にいたりして日本中が熱狂していた(という)なでしこJAPANの活躍を知らないまま1日あまりを過ごして、「当然知ってるよね」的なニュース報道に接してようやく女子サッカーが世界一に輝いたことを知りました。すごいですね!国内での注目がほとんどなく、スポンサーも含めて支援の少ない競技で世界一になるというのは並大抵のことではないと思います。
ただ、今回の快挙がいかに快挙であるかをどれほど説かれても、残念ながら僕にはあまり感慨とか感動といったものはありません。事実として「すごい」と思うのだけれど、飛び上がって喜んでビールを立て続けに何杯も飲むといった感じとは違う。そんなこんなを考えてみると、「他人の成し遂げた快挙」といったものにあまり響かない体質(というか心の性質)なんだろうな、と思いました。
思えば、野球のWBCで日本が世界一になった時もそれほどでもなかった。野球は好きだし、よくテレビで見て知っている選手が世界の大舞台で強豪チーム相手に戦っている姿を見るのはすごく楽しいけれど、それと勝利の感動というのはちょっと種類が違うと感じてしまう。ゴルフの石川遼選手にしてもそう。カップインした時に彼と一緒にガッツポーズをしたりはしない。日本人のノーベル賞受賞やら宇宙飛行にしても同じ。これは多分、「共感」というスイッチに信号が流れていないからなんでしょうね。
人それぞれ、心からの共感をもって(自分のことであるかのように)喜んだり悲しんだりする人間関係の範囲というのは異なるものなのだと思います。自分からごく近しい人に起こった出来事に対してしか共感スイッチが入らない人もいれば、世界の反対側で起こったこと(チリの炭坑事故のように)に対しても涙できる人がいる。あるいは、感動しやすい人/しにくい人というのも当然いる。ニッポンの快挙なんだから冷めて見ている人は愛国心がないとか、そういうものではなく、感じ方の個人差ではないかと思うんです。良い悪いという話ではない。
そういうわけで、今回の女子サッカーの結果をうけて歓喜している人たちを冷ややかに揶揄している人たちや、揶揄している人たちを揶揄している人たちがいるのには少し違和感があります。共感するかどうかということと祖国愛とか郷土愛とかは別物だと思うし、マスコミ報道の過熱ぶりは今に始まったことではなく、彼らが人の感動に非常に敏感に反応する産業だからということでしょうから。
Kazuteru Kodera