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 義の形骸化と同じ現象は、いろんなところで起こっている

昨日のエントリーの最後に、こんなことを書きました。

お中元をもらったら返さないと失礼だ、といった「形式としての義」がはびこった結果として、本来の個人と個人の間にある微妙な感情のやり取りとしての「義」が薄れてしまった結果なのでしょう。

これを振り返って考えてみると、「義」という感覚に限らず、世の中には形式化されたが故にその本来の魂を失い、形だけの「形骸」となってしまったもののいかに多いかに気付きます。本来は人間と人間の感情のこもったやりとりであるはずのものが、形式化に伴って「そもそも何のためか」が忘れられ、これさえやっておけば問題ないという保守的な態度とあいまって形骸になってしまう。
先日のエントリーで型やマニュアルといったものの本来の役割について触れましたが、型やマニュアルもまた、形式化されることに伴うマイナスの影響がゆえに本来の意味を失いがちな存在の一つでしょう。
何か一つの形式に出会ったとき、それを「形式ばっていて無駄だ」という形で切り捨てるのではなく、本来そこに宿されていた心・感情とは何だったのか、思いを巡らせてみる必要性を感じます。それを形式として後世に残した先人たちは、どんな思いをもってそうしたのか。
卑近な例でいえば、ビジネスマナーなどがそうでしょう。僕はいまだに、タクシーに乗り込むときにどうして客人を先に乗せるのかわかりません。運転席の後ろはたいがい助手席の後部よりも狭いし、乗り降りが不便です。特に高齢の方にとっては、よいしょよいしょと奥に詰めるのは大変です。かといって自分が先に乗ったら失礼なんじゃないか?と形式に邪魔されて、本来の思いをどこに置くべきなのかわからなくなってしまう。
大切なのは何よりも人間の心であり感情。高度に形式化するのは実践する側として「ラク」であることに違いはありませんが、そこに「考える」「思い・気持ちを汲む」というプロセスが失われてしまうとき、形式は形骸となり、効率は心を失わせる結果になるのではないでしょうか。
Kazuteru Kodera