水滸伝には今の日本がなくしたものがたくさんあるんじゃないか

複数同時並行読書を初めて、今まで時間を使って読むことのできなかった古典などにも手を出し始めています。その筆頭が中国三大奇書のひとつ水滸伝。全120回にもわたる壮大なストーリーが、1冊約10回分くらいの割合で収録されている超大作です。実はこれ、読んだことがなかった。
まだ2冊目の途中までしか読んでいないのですが、ここに見て取れる中国宋代の英雄豪傑たちの姿に、今の日本がなくしてしまった多くのものを見る気がします。その中でも最大のものは「義」。
水滸伝の中で毎回といっていいくらいに出てくるのが、この「義」という感覚です。窮地を救ってくれた人の恩に対する「義」、自分の力量を見いだして引き立ててくれた人に対する「義」、何くれとなく世話を焼いてくれた人に対する「義」。この義のために登場人物たちは己の損得を抜きにして戦い、生き、死んでいく。そこにあるのは単純な自己犠牲の精神ではなく、かといって純粋な貸し借りの勘定とも少し違う人間精神の姿です。
これは、目上の人には逆らうな、とか道徳に沿った生き方をしろというのとも違った感覚です。何しろ、例え組織上の上下関係があろうとも、そこに義がなく従う必要がないと判断すれば躊躇なく裏切り、人を殺めたりしてしまうのですから。義の感覚は一般的な道徳を超えたところにあり、どんな世の中の権威であれ犯すことのできない存在として描かれているのです。
こうした「義」の感覚というのは、現代でも人間共通の感覚として存在しているものです。Give & Take などとシンプルに言い表してしまうこともできるのかもしれませんが、実際のところ何かを「Give」されたときに人は心の中で必ずその「恩」とそれを返すという「義」の感覚が生じている。それを大切にして自らの生死を賭してでも守ろうという価値観がどの程度あるかは、時代・文化によってさまざまでしょう。
いずれにせよ、「義」の範疇で展開される個人と個人の関係性というのは、僕自身も含めて薄れているものなのではないかと感じました。それは恐らく、お中元をもらったら返さないと失礼だ、といった「形式としての義」がはびこった結果として、本来の個人と個人の間にある微妙な感情のやり取りとしての「義」が薄れてしまった結果なのでしょう。
まずはもう一度、自分の中で発生しているはずの「義」の感覚というものに耳を澄ませて感じ取り、それを果たすという行動に結びつけていくことから始めたいですね。
Kazuteru Kodera

水滸伝 (1) (ちくま文庫)

水滸伝 (1) (ちくま文庫)