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 ブログとレガシー 残すということ

Twitterは「フロー」、どんどんと流れて行く。それに対してブログは「ストック」、蓄積され残されていく。Twitterが多方面で着目されるに及んで、こんなことが言われるようになりました。フローとストック、Twiiterとブログ両者の特徴を言い得て妙の表現だと思います。
そんなことをふと考えていたら、「ブログは残る」というワードからこんなことを思いました。ブログは例え僕が「死んだおじいちゃん」になっても、ウェブ上に残り続けるんだな、と。このときにTwitterでつぶやいたのがこんな言葉。

僕が「死んだおじいちゃん」になっても、ブログなんかを読めば僕がどんな人間でどんなことを考えて生きてたのかがわかる。何世代先になっても。

僕らよりも前の世代、僕の祖父母とかその上の世代以前の人たち。彼らがいかに考えいかに人生を生き、そしてどんな彩りを人生に添えていったのか、僕たちは口伝えでしか知ることができません。あるいは、納屋から日記が見つかって、というような形でしか。それもおそらく、彼らの語った言葉の断片や、ほんの一部の記録情報だけが残されているに過ぎない。
言ってしまえば、僕は自分のルーツであるところの先祖の思考や行動を、ほとんど知ることができないまま、一族としてそのにある自分の人生を生きているわけです。これは何というか、残念だなと直感的に思うのです。数十年の人生を懸命に生きて、膨大な量の思考と行動とを積み重ねた先人の、それも家族の、そうした蓄積に触れることができないというのは。
例えばブログ。僕が「死んだおじいちゃん」になった時、僕の広い意味での「子どもたち」は、ここに綴られた言葉や写真から、僕がこうして日々を刻んで行く様子を垣間みる事ができる。本人たちがそれを望むかどうかは別にして、望めばそこにあるという環境にはなる。これは、やっぱり直感的に、少し嬉しい。
技術がもたらした成果に感謝しつつ、自分のレガシー(遺産/遺物)としてのブログを「残す」という視点に気づいたひとときでした。
Kazuteru Kodera