学ぶは真似ぶ。学習のプロセスと模倣について

「学ぶ」という言葉の語源は「真似ぶ」つまり真似をすることです。芸術や武術などに限らず、あらゆる学習はまず人の真似をするところから始まります。お手本となる相手のやり方を観察し、実際に自分でやってみて、お手本に近づけるように努力する。やがてそれができるようになったら、自分なりの工夫を加えて付加価値を出して行く。
世阿弥の言葉であるという「守・破・離」の考え方も同じです。まずは基本を学びそれに忠実に(守)。やがて手本に自分の味・自分の色を加えていく(破)、最後には全く新しいものを自分の手で作り上げる(離)。
言い方を変えれば、学びを提供する側(つまり教育の提供者)としては、上記のような「守・破・離」のプロセスを学び手がフォローできるように、サポートや気づきを与えて行く必要があるわけです。いつまでも「手本通りにやれ」では、大きな発展の芽を摘んでしまうことになる。時期を見計らって、自分なりの味わいを加えるように導いたり、意図的に対立を生んで学び手が独自の道を創り出すように刺激をしたり。ただ「教える」だけで学び手が成長しないのは、こうした学びのプロセスを無視しているからなのでしょう。
一方、ビジネスにおいては「真似る」というのは時として非難の対象になります。競合他社の始めたサービスや開発した商品のコピーかと見まごうようなものをリリースしたりすれば、「真似だ」と市場や時として社内からも批判を受けることになるのです。
でもこれは、冒頭に書いた学習のプロセスからすればやむを得ないこと。他社の優れたところを手本にして、それをマスターした上で自社の独自性を加えて新しいものを作って行く。社会全体の視点から見れば、そうしたサイクルの繰り返しが全体としての商品/サービスの向上につながっているのです。
真似された方はたまらない。まさにその通りです。苦労して作り上げたものが、弟子でも何でもない競合他社に真似されてしまうのでは、新たなイノベーションを生み出して行くモチベーションはなくなってしまいます。「誰かが新しいものを作るのを待って、それを真似すればいい」と。だから、特許権を始めとする「第一人者の利益」を保護する仕組みが存在するのです。
一方、最近は自社のノウハウをオープンにしていくような例も出てきました。オープンソースのソフトウェアなどは最たるものですね。技術をブラックボックスにして独占するよりも、オープンにして市場参加者を増やした方が全体のパイが拡大し、ひいては自社の利益にもつながるという考えからです。
「社会/世界」といった大きな視点から見れば、こうしたオープンソースの方が全体の価値向上に寄与する可能性が高いということになりそうです。社会の公器としての企業 という考えが強まるにつれて、今後は「秘密なし」の企業が増えてくるかもしれませんね。それが自社の評判とブランド構築につながるという考え方も、それを後押しするものになるかもしれません。
Kazuteru Kodera