自己イメージが低いわけ 限界を設けることのワナ

前回から随分と日数が経ってしまいました。前回の続き、「自己イメージ」についてです。
日本人の自己イメージが、諸外国の方たちと比べて低いという傾向があるという話。いったいそういう違いがどこから出てくるのでしょうか?日本は世界第二位の経済大国であり、それを支える日本の人々はそれを十分に誇ってもいいはずなのに。
僕の一つの仮説は、日本人の持つ「成功のロールモデル」と「教育システム」が自己イメージの低下を招いている、というものです。順に説明していきましょう。

1.成功のロールモデル
よく言われることですが、日本人は子供に対して「勉強して、いい大学に入って、大きな会社に入れば幸せになれる」という成功ロールモデルを明示的あるいは暗示的に説き続けます。こんな話はとっくの昔に成立していないし、大きな会社に所属する不幸な人はたくさんいるのだけれど、この神話はいっこうに消えてなくならない。現に受験戦争が緩和したという話は聞かないし、不況になればいわゆる安定した大企業が就職ランキングの上位に名を連ねる。
わが子に安定を求める親心を責めることはできませんが、多くの人がこうしたロールモデルを信奉し子供に説き続けた結果として何が起こるかというと、ロールモデルから外れてしまったたくさんの「敗者」が生まれるということです。いい大学に入って大企業に進める人というのは、全人口の中でもほんの数%。残る大多数は、期待された姿を実現できなかった「敗者」と自己認識してしまう危険があるのです。自身の出身校を「二流・三流」と定義して、その事実を自己卑下して語る人のなんと多いことでしょう。彼らは大学に入学する時点で、すでに自己イメージを相当程度傷つけてしまっているのです。
2.教育システム
成功ロールモデルの神話を強力に後押ししている存在が、日本の教育システムです。高校や大学の受験に際して、その学校が持っている教育に関しての実力ではなく「入るのがどれだけ難しいか(=偏差値)」で序列をつけて、その数値が高いほうがいい、と一元的に評価してしまう。学校教育の質というのは、入学する学生の学びたい内容にどれだけフィットしたプログラムを提供できるかという、個人個人で異なる評価がされてしかるべきものなのに、入学試験の難易度や受験者の偏差値がどの程度かという数字のみで学校が評価されている。
社会に出てから初めて人はその実力(社会にどれほどの付加価値を提供できるか)を評価されるのならいざ知らず、そのはるか手前の段階で、数字の高低で一人の人間の実力をあたかも見定めたかのように判定してしまう現状は、多くの人の自己イメージを低下させ、自身の実力に勝手に限界を設けることを助長しているように思います。

まずは、自分自身の可能性は無限大であると考えることが大切だと僕は思っています。以前にも書いたことがありますが、人の能力の限界なんて、誰にも評価することはできないのです。唯一できるのは、その潜在能力のうちのいくばくかを使って「今の自分」という存在がある、ということだけです。