giftの大きさ 才能という資源について

英語で才能のことを「gift」と言います。日本語で「才能」というのに比べると、ずいぶんニュアンスが違う。「与えられたもの」「授かったもの」という意味合いが強く、キリスト教的世界観が背景にあることをうかがわせる言葉ですね。
人それぞれに与えられるgiftの種類や量は異なる、という考え方が一般的です。多くを与えられる人もいれば、わずかしか与えられない人もいる、しかし、この考え方には一つの大きな見落としがあるように思います。それは、どれだけのgiftが与えられているのか、その総量を計ることは誰にもできないということです。
幼いころ、親や教師など周囲の人からいわゆる「ダメ出し」をされたことのある人は多いでしょう。「だからお前はダメなんだ」とか「私たちの子供なんだから、できるわけがない」とか。時には「できなくても仕方ないよ」といった励ましという形をとることもあるでしょう。どんな形をとったにせよ、これらはすべて、giftの総量を周囲が勝手に判断し、個人のgiftに限界を設けているということです。恐ろしいのは、それを本人が幼さゆえに当たり前のように受け入れてしまうということ。
アニメの主人公が言いそうなセリフでむずがゆいけれど、”個人のgiftの限界なんて周囲の人にも自分にもわかりません”。神様はひょっとしたら知っているかもしれませんが、その人が生きている間は教えてくれないでしょう。
ここで提案です。この際だから、giftの総量は人類すべて無限大だと考えてみてはどうでしょう。神様だけが知っている総量についての情報なんてどうせ私たちは知りっこないのだから、無限ってことに決めてしまうのです。勉強でもスポーツでも仕事でも、自分に備わったgiftは無限大だとしましょう。そうすると、少し自分への見方が変わってくる気がします。
せっかく持っている資源なのだから、ムダにせず生きている間にたっぷりと使ってやりましょう。giftはもらい物。きちんとムダなく使わないとバチが当たります。