明治日本の無邪気な風景

夏休みを南国のセブ島で過ごしている間、僕がプールサイドでひたすらにページを繰っていたのは、遠く寒い満州の地などが登場する、いかにも南国らしくない司馬遼太郎の長編小説「坂の上の雲」でした。

坂の上の雲〈1〉 (文春文庫)

坂の上の雲〈1〉 (文春文庫)

以前に一度通読したことのある小説。「素晴らしかった」という感慨のみが残ってはいましたが、時を経てどことなく形を欠いた獏とした記憶へと姿を変えていたため、今回の休暇を使って一挙に、と思い立ちました。
実はまだ最終巻を残しており、「一挙に」という思いは果たせずにいるのですが、大長編の中核部分をほぼ読み終えたところ。やはり記憶に残る感慨はどうやら本物であったようで、幾ばくかの年齢を積み重ねたいま再読してみても、一つの小説として、そしてそれ以上に日本の歴史を叙述した書物として、さらには在りし日の日本人の心・精神を描いた写し鏡のようなものとして、やはり「素晴らしい」。
主に日露戦争の開戦前から講和に至るまでの数年間を描いた小説。歴史小説、というカテゴリーに入れることはもちろん可能ですが、そこに登場する明治国家の主柱たるべき人々のほとばしるような使命感と危機感、そして優れた行動の軌跡は、感動を呼ぶと同時に自らに鋭く問いかけを発するものでもありました。
生まれたばかりの明治日本という国。国民国家という概念すら曖昧であった当時にあって、この小説に登場する人物一人一人(明治の元勲である山本権兵衛しかり、主人公たる秋山好古・真之兄弟しかり)は、「自分がここで立たなければ、苦労して作り上げた自分達の国がなくなってしまう」という危機感と、「自分こそがこの国を作っていくのだ」という使命感とを、誰に教えられるでもなく共有し、人生を傾注してその大事業を成功へと導いていきます。
個人の栄達がそのまま国家の発展にも寄与するのだと皆が無邪気に信じていた時代、というような表現を司馬遼太郎は使っています。つまり、「自分は偉くなりたい。だから勉強する。大学に行って西洋の学問を勉強して政治家になれば、日本をもっといい国にできるに違いない」そんな無邪気さが当時はあった、ということです。
現代に住む我々から見れば、確かに「無邪気」あるいは「幼稚」と見えることもあるそうした風景ですが、どことなく羨ましいと感じてしまう。「美しい国」というフレーズに誰も共感できない乾いた風景に住む我々には、少しくらい無邪気で幼稚な、それでいて沸き立つ蒸気のように熱い、明治日本の空気に学ぶところがあるような気がしてなりません。