「見られず、聞かれず、触られず」

「見ざる 聞かざる 言わざる」ではありません。NHKの「プロフェッショナル〜仕事の流儀〜」という番組を気に入って見るようになってから、ナビゲーターを務める茂木健一郎さんのブロク「クオリア日記」も読むようになりました。その中に今朝書かれた言葉です。
http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2007/02/post_bc16.html

建物から建物への移動の時、出羽三山が遠くに見える。
このような景色を常に眺めていれば、きっと表現も変わってくるのだろう。
いや、変わらねばならない。
現代は、求心力のある単一の領域として私たちの前に立ち現れる。インターネットは、その向こうに世界の様々を隠蔽しているはずなのに、なぜか、一つのふわふわとした球体として知覚される。

そういった現代から、離れて、思い切って遠くにいってしまえ。
毎日のニュースや、最近のビジュツカイの動向や、誰が旬で誰が落ち目だとか、そんなことは知りもしない岩や土や植物とともにあれ。
誰にも見られず、聞かれず、触られず。
雪型を際だたせる山肌を見ながら、そんな衝動にかられた。

出張で東京から遠く離れた地方に出かけて、一両編成(編成にもなっていないですね)のローカル電車に揺られながら、窓外をゆったり流れる緑色と青色の景色や、車内に響く地元の中学生や高校生が他愛のないおしゃべりを聞いたりすることがあります。
そんな時に、「こうした場所で日々を生きていたら、僕の思考と感性、そしてその表出たる表現は、ずっと違ったものになるんだろうな」なんて考えたことが何度かありました。そして、一体自分なら、そうした環境の中で何を考え、何を紡ぎだすことができるんだろう?なんて、想像を膨らませてみたりも。自分の可能性、というと大袈裟ですが、自分が今生きている環境以外の場所でどういった人間になりうるのかという想像は、少し怖くkもあり、また楽しいものです。
誰にも見られず、聞かれず、触られず。そんな時間を過ごしたとき、ひょっとすると人は自分の中に豊穣な鉱脈を発見することができるのかもしれません。これまでに蓄えた情報やら思考やら、人との交わりやらを一度カメの中に放り込んでじっくりと熟成させる。そんな時間が欲しいな、と思います。