そもそも何のため? という質問の大切さ

社会人になって最初に就職した会社(銀行)には、当時の僕には存在理由のわからない数多くの書類や伝票、そしてそれらを扱う方法を定めたルールが存在していました。「事務マニュアル (正確な名前は忘れてしまいましたが・・・)」という電話帳くらいの厚さのブックレットが支店には保管されていて、わからないことがあるとそれを調べます。それでも、細かな事務のルールはしょっちゅう変わっていて、そのたびに「通達」と呼ばれる電子回覧板みたいなものが配布されて、ルールの追加や変更が行われます。どうしても曖昧な個所が出てくると、同じくルールの定義に当惑している上司の指示で「事務統括部」というルールを決める部署に何度も電話して問い合わせをした記憶が残っています。そして、処理後の伝票・書類に赤ペンで「事務統括部●●様に確認済み」というコメントを加えるのです。これで、後で処理方法の間違いを咎められても言い訳ができ無罪放免。何ともサラリーマン的ですが、これは当時けっこう多用しました。

当時は、そうしたルールがいかにも無駄で意味不明で、「事務」という名詞を聞いただけで吐き気が出るような気分になりました。その後に転職した先の商社にはルールはほとんど存在せず、自分の判断で業務を処理できる環境だったので、あまりの自由さと事務の少なさに逆に驚いてしまったくらいです。

会社が業務オペレーションをしていく上では、効率や処理の正確性を最適なものにするために「標準的な処理方法」が定義されルール化されることになります。1人や2人でやっているうちはルールも何もありませんが、一定以上の規模になれば、一つの最も適した方法をルール化し、みんながそれに沿って処理を進めるのが効率的です。そうしたルールを書き込んだ書面が「マニュアル」と呼ばれrます。

銀行においては、金融という業界に独特のコンプライアンスや個人情報保護、社会インフラとしての責任などから、その業務処理にも多様な視点から多様な要請が加えられます。結果として、一般の人からは(行員からすら)意味不明なルールが制定されることになるのですが、もともとに立ち返ればそれは上記のような「最適な処理方法」の標準化の結果でしかありません。銀行側の説明が不十分で、行員が理解不十分(僕を筆頭に)だったことは問題ですが、「事務」や「マニュアル」そのものを憎悪していた僕の考えは、かなり的外れだったと言えます。

現実に、会社をゼロから作ってある一定の規模を越えてくると、「業務ルールの設定」「標準化」の必要性を痛感するようになります。先月はこう処理したけれど今月は別の方法でやった、とか、Aという製品はこうしたけど、Bは別の方法で処理したなどということになると、事業に深刻な問題を発生させかねません(業務の定式化と正確性)。また、Xさんが担当すると1時間で終わる業務が、Yさんだと3時間かかるといった事態も避けなくてはなりません。限られたリソースをいかに効率的に活用するか、というのは重要なポイントです(業務の効率性)。

こうした理由から、経営者にとってこの「ルール作り」というのは重要なテーマになります。そして、「いかに優れた処理方法をデザインしてルール化するか」が腕の見せ所になるわけです。当然ながら、業務オペレーションに不可欠になっているITの要素も絡んできます。目指すべきは、正確性を担保した上で最速の処理を実現できるオペレーション・デザインです。

ところが、いかに心血を注いでオペレーションデザインをし、ルールとして設定しても別の問題が出てきます。それは、上記の銀行のケースのように、「ルールの設定された背景や根拠が運用者に理解されない」という問題です。仮に第一世代の運用者には理解され、「なるほど、このルールならスピーディーかつ正確に仕事ができるぞ」と喜ばれたとしても、第二世代・第三世代と時間が経過していくうちに、やがてルールの作られた背景は忘れられ、「なぜこんなことをしなくてはいけないのか?」と疑問と不満をぶちまける人が出てきたりします。あるいは、環境の変化に伴ってルールそのものが時代遅れになっている(ITの進化でもっと効率的な方法が可能になった、とか)ケースもあるでしょう。

いったんルールを設定したら、運用者にはきちんとその背景を伝えて理解してもらうことはもちろんですが、定期的に「そもそも何のために?」という質問に答えるためのコミュニケーションを実施したり、環境の変化も踏まえてそのルールが最適なものになっているのかをレビューすることが、とても大切なことです。