ビジョンは国境を越えているか

前回の記事で、立ち上げ期を抜け出しつつある組織、つまり僕の所属するタイの子会社2社、の統合理念の喪失に対する危機感について書きました。ここでは統合理念といっていますが、実際のところよく使われる言い方にすると、ビジョンということになります。我々はいったいどんな未来に向かっているのか、そこに至る道筋にはどんなストーリーがあるのか。組織が一つの方向に向かっていくには、ビジョンとストーリーがメンバーの理解と共感を得ていることが大切です。

ところで、僕がここタイの事業に臨む際に抱えてきたビジョンは、「スモール・グローバルカンパニーになる」というものです。見まごうことなき中小企業、スモールカンパニーである当社を、すでに事業活動を行っている中国にとどまらず、タイ、さらに米州も視野に、小さいながらもスピードと実行力で大企業を打ち負かすグローバルカンパニーにしたい。大まかにいうとそんなビジョンとストーリーを持ってやってきたわけです。

そこで直面した立ち上げ期の興奮状態からの脱却。統合理念としてのビジョンを、メンバーにしっかりと語り、ストーリーを共有して前に進んでいくべき時期にきています。ところが、どうも上記のビジョンでは具合が悪いような気がするのです。タイで一緒に仕事をしているタイ人スタッフを理解すればするほど、彼らはこのビジョンに共感も興奮もしないんじゃないか?という直感が湧いてくるのです。

理由は、グローバルという言葉にあります。「グローバル企業になりたい、いいじゃないか」と思ったりもするのですが、当社はタイというローカル市場を事業領域として、ローカル市場で勝つためにやってきている。ローカルの積み重ねがグローバルではあるのですが、タイで当社に参加したメンバーにとっては、タイは「母国」なんですね。
日本本社から派遣されたメンバーや本社のメンバーは、タイでの子会社の設立と成長を見て、「いよいようちもグローバルになったなあ」と慨嘆することもあるのですが、それは日本に視点を置いているから思うこと。タイで新たに参画したメンバーにとっては「?」なのです。

僕が抱えてきたビジョンは、飛行機に乗って僕と一緒にタイにやってきたわけですが、結局のところ、どうも「国境を越えていない」ビジョンになっているようなのです。グローバルといういかにも国境を意識しない言葉が込められていながら、何とも皮肉なものです。

ドメスティックな中小企業からの脱却、という自社に対するある種のオブセッションから発生した、「小さくてもグローバルになってやるんだ」という気概は、国境を越えて人々を統合するにはいささか独りよがりだということかもしれません。