「カエルの子はカエル」なら、親ガエルは子ガエルに何ができるのか

タイトルが「AI時代の子育て戦略」となっている本書。巷では「AIが普及してもなくならない仕事は何か?」という議論が盛んに行われていますから、 「AI時代に生き残れる職業ガイド(および子供をその職業に就かせるための指南書)」のような感覚で手に取る人も多いかもしレません。しかし、読んでみると「AI」や「AIの影響」そのものに焦点を当てた子育て論ではないことがわかります。

AI時代の子育て戦略 (SB新書)

AI時代の子育て戦略 (SB新書)

 

本書が前提とするのはまず「カエルの子はカエル」。すなわち人間の持つ能力はその多くが親からの遺伝であるということ。そして、次に「好きこそ物の上手なれ」。すなわち好きなことなら時間を投じてのめり込めるから自然と上達するということ。

受験勉強も、ある程度の素質を持ち合わせた上で、勉強にのめり込めた子どもが勝っているのがわかる。東大に合格した人たちの勉強法をよく見てみると、ほとんどの人が勉強を楽しんでいる。ロールプレイングゲームのように、遊び感覚でやっているうちに成績が向上したという話を頻繁に耳にする。  一時期『東大合格生のノートはかならず美しい』(太田あや著、文藝春秋)という本が話題となった。掲載されているノートは、それぞれ工夫が凝らされている。のめり込む能力があったからこそ、そこまでノート作りを追究できたわけだ。  彼らは、才能を持ち合わせ、たまたま受験にのめり込めたから、東大に進学する道を選んだ

すでに様々な研究で科学的にも証明されているこの「素質は親から遺伝する」と「のめり込んだら上達する」の2つの原則を踏まえて、親はどのように子供に接して行くべきなのかが説かれていきます。

言うまでもなく「素質のあること」x「好きでのめり込めること」の掛け算の答えを見つけなさいということになるわけですが、そこに至るまでの具体的なテクニックや連れて行くべき場所までが紹介されている点は著者ならでは。

また、遺伝の影響が大きい領域については素質の有無を早めに見極めてばっさり切り捨てることも必要、と切れ味がいいのも痛快です。

コミュニケーションについてはもともとの能力差が大きすぎるため、才能がない人がそこそこ能力を高めたところで焼け石に水という気がする。  言葉に関する才能は、音楽や美術の才能と一緒で、勉強したからといって身につくものではない。売れている小説家の大多数は、カルチャーセンターの小説教室などに通わずとも売れる小説を書いている。

親である自分の得意なこと、得意だったことは何なのか。自分を振り返ってみるいい機会になるとともに、子供たちの「のめり込む瞬間」を見逃すことのないよう丁寧な眼差しで子育てをしていこうと思わせてくれる一冊でした。

 

 

 

 

社長はなぜ運転手付きの車で移動するのか その3 経営者は何をする人ぞ

「経営者は経営しなくてはならない」というのは、ファーストリテイリングユニクロ)の柳井正社長が座右の書にあげたことで有名になった「プロフェッショナル・マネジャー」の一節です。

プロフェッショナルマネジャー

プロフェッショナルマネジャー

 

(この本、随分と以前に読んだのですが、この一節が鮮明に記憶に残った一方で、その他の部分は今ひとつ印象に残っていません。近いうちに再読してみようと思います。 )

社長はなぜ運転手付きの車で移動するのか?という問いに対する一つの答えが、この一節「経営者は経営しなくてはいけないから」だというのが今回のテーマです。権威を持った存在であるべきだから、でもなく、安全上の理由からでもなく、かといって日本でよく言われる「偉いから」でもなく。経営しなくてはいけないから、運転手付きの車なのだ、と。

数年前、ある中堅企業の若きオーナー社長と食事をしていたときのこと、彼の言った言葉がとても印象的でした。30代にしてお父様から複数企業からなるグループの経営を引き継いだ彼は、頭の切れもよくハンサムで、大胆な経営戦略を打ち出して活動的に飛び回っており、誰もが憧れる「若社長」のイメージにぴったりでした。そんな彼が、

社長なんて早くになるもんじゃないですよ。社長になってしまったら、時間とともにどんどん自分が磨り減っていく。10年もやったら、きっと心身ともにボロボロになってしまいます。

もし今のポジションで(あなたが)ある程度自由にやりたい仕事をできているのなら、社長になんて早くになるべきじゃないです。

企業のトップとして「経営をする」生活を続けることがいかにタフなのか、彼のような溌剌とした人物の口から出た言葉だけに、重く響いたことを覚えています。

 経営者が「社長の椅子」という御輿に物理的に乗っているだけではなく、本当の意味で「経営をする」となれば、要求されるのは何よりも認知資源(脳のリソース)と行動力を支える体力です。行動してアイデアを得て、集中して考えて、コミュニケーションによって意思を伝達し、他者を行動の渦に巻き込んでいく。その過程で消費される認知的・身体的なエネルギーは膨大なものになるでしょう。

そこで求められるのは、「そうした有限の資源を、どのように効率的に使うのか」の工夫です。かの若社長が言った「磨り減っていく」過酷な状況を、いかに少ない消耗で乗り越えていくのか。明晰な判断と活発な行動を損なうことなく持続するにはどうしたらいいのか。

一つの答えが、「経営をする」こと以外には認知的・身体的資源を可能な限り使わないという「捨てる」発想です。

  • 他人でもできる車の運転は運転手に任せる(運転は認知的資源をかなり使います)
  • 周囲への気遣いが必要な混んだ電車での移動や過剰な徒歩移動を避けるため、電車ではなく車・タクシーで移動する
  • 長時間のフライトはしっかりと眠れるビジネスクラス以上の座席を利用する (睡眠不足の翌日は、酒に酔っているのと同じ程度に認知能力が低下すると言われています)
  • 食中毒の危険を避けるため、(海外では特に)衛生状態の良くない安価な店では食事をしない

極端な例の一つは、Facebook創業者のマーク・ザッカーバーグ。彼は毎朝着る服を選ぶという認知的資源をセーブするために同じTシャツしか着ない、そのための同じデザインのシャツを大量に持っているというのは有名な話です。

 おそらく、「社長は運転手つきの車で」というのはこのような背景から定着した考え方なのだと思います。ただそれがいつの間にか「当たり前」「常識」になってしまい、経営をしていない「なんちゃって経営者」までもが理由を考えることもなく「社長なんだから」と地位に甘え、「楽チンだ」と後部座席でふんぞり返っている、という事例も多々あるのではないかと推察します。

 経営者は、経営しなくてはならない。

 

 

 

 

社長はなぜ運転手付きの車で移動するのか その2 日本の「よき経営者」

前回の記事は、「階層主義的な文化の下では、組織の幹部は権威ある存在でなくてはならないから、相応の車(運転手付きであることも含めて)に乗ることを求められる」という話でした。

もう一つ別の視点として議論になりそうなのが、「経営者とは、かくあるべし」という経営者論(?)とでも言うべきもの。今日はそちらの話です。

日本では、大企業のトップや創業者が「フツーの人」であることが喜ばれます。ユニクロの服を着ていたり、牛丼チェーンでランチをしていたり、飛行機の座席がエコノミークラスだったり。

中でもテレビなどでよく紹介されるのが「電車通勤」。満員電車に新聞片手に乗って、ラッシュ時間帯に出社して来る、という様子が、偉ぶらず、常に社員と同じ目線で考える愛すべき経営者の姿として紹介されるのを何度も見たことがあります。

逆に、長距離の移動はいつもプライベートジェット、運転手つきのリムジンで通勤していて宿泊はいつもスイートルーム、というような経営者が前向きに紹介されることはほとんどありません。民放テレビ番組で面白おかしく紹介される、あるいは羨望と嫉妬混じりに紹介されるのが関の山でしょう。

こうしたテレビ等での取り上げられ方からすると、ここには明確に「よき経営者の姿」という型があるようです。前者はそれに該当し、後者はそうではないという価値基準が日本社会に広く共有されている(一応テレビは日本人の広範の人が見ているという想定で)。

前回紹介した異文化理解の観点では、日本は「階層主義的」な文化に分類されています。ただし、こと経営者・組織のトップに関しては例外のようで、庶民的な姿が愛される。これは意外です。

敗戦によって社会上層部・指導者層への信頼が一挙に崩れ落ちたこともあるでしょう。戦前は「華族」はもとより「旧士族」も含めて士農工商から引き継がれた社会階層が色濃く残っていはずです。それらが、敗戦という大ショックによって吹き飛んだ。結果として、文化的には「階層主義的」なものを根底に残しつつ、表面的には「平等主義的」要素が取り込まれていったと見ることができるように思います。

もしかしたら水戸黄門暴れん坊将軍などの人気時代劇も、そうした新しい価値観の刷り込みとして「庶民派の偉い人」というリーダー像を作り上げたのかもしれません。

こうした社会的なある種の要請を踏まえてか、企業幹部が運転手つきの車に乗るのは「安全上の理由」とされることが多いようです。プロの運転手に任せた方が危険が少ない、万一の事故の際に会社の責任問題になりにくい、ということでしょう。だから別に偉ぶってるわけではなく、仕方ないんだよ、と。しかし、であれば休日も含めて本人の運転は禁止しなくてはいけませんが、そういう話は聞きません。どこか、本質的な意味を取り違えているような気がします。これについては、次回書いてみたいと思います。

 

 

 

 

社長はなぜ運転手付きの車で移動するのか その1 異文化視点から

最近、タイの会社で面白い事件(?)がありました。社用車としてリースしている車がリース期限を迎えて新しい車に買い替え(リース)ることに。そこで発生したのが「異文化間の壁」を感じさせる騒動でした。

その車は日本人駐在員のゼネラル・マネジャー(GM)が通勤に使うとともに、日中は営業マンを始めとするスタッフが外出に使用するのですが、同GMは片道2時間以上という遠方からの通勤。彼は腰痛持ちということもあり「後部座席がリクライニングのできるタイプがいい」との要望がありました。

後部座席が可動式になっているのは主にハッチバックタイプやSUVなので、私は予算の範囲内で中型クラスのハッチバック車がいいのでは?とタイ人の総務担当にアドバイスしたのですが、そこで想定していなかった反応がありました。彼女は猛然と反論したのです。「GMはこんな車に乗るべきではないです!」

私は思わず「?」となりました。上場会社の社長というならいざ知らず、まだ立ち上がって5年弱の中小企業である我々が、車の「格」にこだわってどうするのか、と。その旨を笑いながら説明しても、やはり彼女は真顔で「No」と言います。どうやらここはきちんと話をした方が良さそうです。

反対する理由を具体的に説明してほしい、と言うと彼女は厳しい顔つきでこう言いました。

「彼(日本人GM)は会社の幹部としてお客さんやサプライヤーさんを訪問します。その時に乗っている車がこれでは、会社として恥ずかしい。私たちも恥ずかしい。ハイレベルな人はハイレベルな車に乗るべきです。」

ここでふと、先日ここで紹介した「異文化理解力」で紹介されていた事例を思い出しました。自転車で通勤するオランダ人マネジャーに対して、ロシア人の部下が「恥ずかしいからやめてくれ」という話。ロシアを含むいくつかの文化においては、組織の上層部は権威ある存在であるべきで、それを組織のメンバーもまた誇りに感じる。逆にその権威が傷つけられた時、メンバーは自らの誇りを傷つけられたように感じる、というもの。

上記の事例で言えば、彼女にとって会社は(小さかろうが新しかろうが)プライドを持って仕事をしている場所であり、その組織の幹部には権威を持って外部と接触してほしい。誰に見られても恥ずかしくない車に乗ってほしい。当然それは運転手付きでなくてはいけない。それが社員にとっても誇らしいことだから。

タイは、国王・王家を筆頭とする厳しいヒエラルキーで社会が構成されています。明確な区分こそないものの、身分格差は非常に大きく、そしてそれを国民が受け入れている文化。上層部の人間は、権威を持つと共に慈愛の心を持ち、下層の人間を思いやり、優しく、時に厳しく導いていく存在であるべき。だからこそ、組織の階層に対する認識も厳格です。異文化理解力の視点で言えば、「階層主義的」な文化(対する概念は「平等主義的文化」)に該当するのでしょう。

オチとして、結局当社の駐在員GMは、腰痛を抱えたままセダンタイプの車を充てがわれることになった、というわけです。こんな日常の事例からも異文化マネジメントの面白さ(?)が垣間見えるというのが、海外での仕事の醍醐味ですね。

 

異文化理解力――相手と自分の真意がわかる ビジネスパーソン必須の教養

異文化理解力――相手と自分の真意がわかる ビジネスパーソン必須の教養

 

 

 

 

 

 

 

タイ人はどうして遅刻してくるのか

少し前に読んだ本ですが、とても多くの「なるほど」が得られた一冊にこちらがあります。

異文化理解力――相手と自分の真意がわかる ビジネスパーソン必須の教養

異文化理解力――相手と自分の真意がわかる ビジネスパーソン必須の教養

 

 ビジネスパーソン必須の教養 と日本語サブタイトルがついていますが、海外で仕事をする、あるいは外国人と接して仕事をする機会のある人には、自分とは異なる文化的バックグラウンドを持つ人がどのように感じ考えるのかを理解する上で、多くの示唆を提供してくれます。

自分自身がタイや中国での仕事をしている中で感じてきたこと、疑問だったことのいくつかに答えが得られただけではなく、今後出会うであろうその他の文化圏の人々との仕事を想定する上で、どのようなスタンスや準備で臨んだらより効果的なのかということをシミュレートする意味でも有用でした。

例えば時間感覚について。以下の引用は少し極端な事例だけれど、中長期の計画を守って物事を進めることを重視するドイツ人に対してナイジェリアの人々がどう感じるか?の事例。

ドイツ人たちは、ナイジェリアでは物事がつねに変わっていくことを理解していない。三カ月先のミーティングの予定を今日立てられないのは、この先何が変わるかわからないからだ。私はナイジェリアのイスラム教地区の出身だが、そこでは最高指導者が月を見て今日から祝日だと言うまで、いつ祝日になるかわからない。いつ祝日になるかわからないのに、二カ月と七日先に自分が電話を取れるかどうかなんてわかるわけないだろう?

 当地タイでの仕事においても、タイの人々が時間にややルーズであったり、ミーティングの時間を「だいたいこの辺りの時刻にやる」くらいの理解しかしないことに苛立つ日本人は多い。実はこれも、突然のスコールや洪水、大渋滞で思い通りに物事が運ばないことが日常的であるタイで、その自然環境や歴史を通じて培われた文化。「Mai pen rai(マイペンライ)」(大した事じゃない、とかNo problem、といった意味のタイ語)という言葉を頻繁に使う彼らは、時間感覚が曖昧で、他人のルーズさにも寛容です。いつ何が起こるかわからないのだから、きっちり細かい計画を作っても仕方がないさ、と。

 本書でも説かれていることですが、こうした文化的な背景からくる非効率を相互の信頼関係を壊さない形で乗り越えていく方法が「言語化してルール化する」ということです。

「私とあなたの時間に対する感覚は違う。その違いを理解した上で、お互いにルールを決めよう」というわけですね。私も工場のメンバーには「工場の生産は1秒でも多く機械を稼働させることが利益になる。だから、始業開始のチャイムが鳴ってから作業場に移動するのではなく、チャイムと同時に作業が開始できるようにしよう。それが利益につながり、待遇改善にもつながるんだから。いいね、これをルールにしてお互いに守ろう。」と話していますが、これも「言語化・ルール化」の事例。

ここでやってはいけないのは、「時間くらい守れ、そんなのは当たり前だろう」という態度。確かに日本の社会では「時間を守るのは当たり前」ですが、それが当たり前ではない文化も世界にはたくさんあるんですよね。タイ人の日本人マネジャーに対するよくある不満は、「少し時間に遅れたくらいで怒って不機嫌になる」というもの。言語化・ルール化をする前の段階で、自分の文化基準でジャッジをするのはやめましょう、ということです。

本書では、上記のような時間感覚についてだけではなく、評価のフィードバックの仕方、ハイコンテクスト・ローコンテクスト文化におけるコミュニケーションの仕方など、異文化の組織環境で仕事をする人に有用なフレームワークと事例が豊富に紹介されていきます。ただフレームワークで紋切り型の当てはめをしていくだけではなく、臨場感のあるケースとともに説得力のある議論が展開していきますので、楽しみながら読むことができるのもいい。オススメの一冊です。

 

雨の日に考えるタイの人々の幸福論

6月も終盤を迎えて、日本は梅雨まっさかり。今日は午前中の早い時刻こそ曇り空を維持してくれていましたが、午後に入ると強い雨が降り続いています。先日日本に帰国した際のフライトで聞いたCAの着陸時の機内アナウンスが印象的でした。「鬱陶いしい梅雨の季節ではございますが、皆さまお体に気をつけてお過ごしください。」確かにその通りなのですが、「鬱陶しい」という表現を公の場で使うのはどうなんだろう、と一人不思議な思いがしたものです。

私が年の半分ほどを過ごすタイの国は、1年の40%ほどが雨季。雨季というと日本の梅雨のような季節がずっと続くのかと現地に赴く前はそれこそ憂鬱な気持ちがしましたが、実際のところはそうではなく、「1日に1回または複数回、激しい雨が降る時間帯がある」という程度。日本の梅雨とは比べるべくもなく気楽なものです。

それでもそうした時間限定の豪雨が度重なることで、川の水位が上がり、やがて洪水となって街を飲み込んでしまうこともあるのがタイの雨季。決して侮ることはできません。また、排水インフラが全国的に未整備なので、豪雨が数時間にも及ぶとそこらじゅうが水浸しになり、通勤・通学をはじめとしてあらゆる移動が著しく滞ることになります。

タイ人の時間感覚はかなり緩やかで、30分程度の遅刻はほとんど罪悪感なし、という感じですが、もしかするとそうした感覚が生まれた背景には「雨が降ったらどうにもならない」というある種の諦念があるのではと思います。

もう一つ興味深いのは、彼らタイ人が雨を決して「嫌なもの・鬱陶しいもの」とは感じていないこと。むしろ、雨が降っているのを室内から眺めて「ロマンティックだ」「美しい」と感じというのです。自分の力でコントロールできないことにいたずらに苛立つのではなく、「Mai pen rai(Never Mindとか、Take it easyといった意味)」とさらりと受け流して自然体で生きていく。それが彼らなりの幸福論なのかもしれません。

 

外国人起業家を増やすには

先日こちらで紹介した「コンビニ外国人」という本の中で、個人的に興味を持ったテーマが「外国人起業家」です。

日本に在留する外国人の中に、ごく僅かではあるものの「経営・管理」のビザを保有し起業している人々がいることが紹介され、彼らが起業に至った経緯や途上で遭遇した困難やそれをどう乗り越えて行ったのか、といった事例が紹介されています。

外国人が日本でビジネスをはじめるには、日本人より多くのハードルを越えなければならない。  まずはビザの変更だ。通常、起業を目指す外国人が「経営・管理」の在留資格認定を受けるためには、入国管理局へ申請する前に事務所を開設しておく必要がある(ユイさんの場合は前もって店舗を借りていなければならず、物件の契約には日本人の保証人も必要だった)。さらに常勤の従業員を二人以上雇用するか、資本金額または出資総額が五〇〇万円以上なければならないなどの要件が加わる。  そのため日本に長く住む外国人でも「経営・管理」の在留資格を持っている人は少なく、全体の1%未満に留まっている。ましてや日本に滞在歴のない外国人が日本で起業してビジネス展開することはほとんど不可能に近かった。

この文章を読むと、いかに外国人が日本で起業することが困難か、容易に想像がつきます。ただでさえ外国人が不動産を借りたり銀行から資金調達をするのは困難である中で、このようなビザ要件が加われば、おそらく起業の地として日本を選ぶ外国人はほとんど現れないでしょう。

それらを打破する取り組みとして、以下のような事例も紹介されます。

二〇一四年以降、〝アジアのゲートウェイ〟を標榜する福岡市など一部の国家戦略特区で、ビザの取得要件を緩和する「スタートアップビザ(外国人創業活動促進事業)」制度がはじまった。  福岡市は、国籍を問わずに起業を目指す人を支援する施設「スタートアップカフェ」を官民一体で立ち上げ、保証人のいらない事務所物件の紹介や専門知識を備えた士業の仲介などを通じて、外国人起業家を支援しているのである。  万が一、相談時に「経営・管理」のビザを取れる要件が整っていなくても、創業活動計画書などの確認をもとに市と入国管理局が審査をすることで、六カ月間の「経営・管理」の在留資格が認められる。「経営・管理」のビザを正式に満たす要件は、六カ月間で整えればよく、創業する外国人は事業の準備をしながら手続きを進めることができるというものだ。  

依然として戦略特区の制度を活用した一部地域の事例であるとはいえ、こうした取り組みが拡大してくことがとても楽しみです。というのも、日本には起業の機会が、特に外国人の目線で市場を見つめた時に見いだせるであろう機会が多くあると思えるからです。

日本はある意味で非常に洗練され完成された社会。その裏返しとして、固定観念・「こうあるべき」「これが当たり前」という通念が広く人々に共有され、諸外国ではありえないような不便が「当然のこと」として受け入れられているようなケースが多いと感じます。また、これまでクローズドな社会であったがゆえに、外国人にとって必要なサービスが未整備という状況もあります。

そうした起業機会を、日本人が見つけるのはやはり難しい。社会通念やしがらみの「当事者」であるからです。そこで、外国人起業家に期待、というわけです。彼らの目線で見た「こうあるべき」を事業化し、日本の社会に刺激とより開かれた可能性を見出してほしい。私も個人的に何かできることはないか、アンテナを張っています。