お金をどう使うか

今年のお正月、ムスメ(5歳・年中)は初めてお年玉で買い物をしました。昨年までのお年玉は、本人に特段ほしいものがなかったこと、金銭感覚というものがなかったことなどもあり、ダイレクトに銀行口座へ。そして今年。足し算や引き算が何となくできるようになり、またお金というものの意味あいも少しわかってきた頃合いということで、「お年玉を握ってお店へGO」というのをやってみました。

正月2日、元旦に入手したお年玉全額を持ってトイザらスへ。僕が興味を持ったのは、何を買ったかももちろんですが、どれだけ使うか、ということ。結論から言うと、彼女は持っていた金額のすべてを使いました。ほとんどお釣りすら残らないように、すべて。(ちなみに、2日に訪問した親戚からもお年玉がもらえる予定だったことは本人は知らなかったので、「これを使い切ったら1年間、誕生日などのイベント以外では何も買えない」という条件で意思決定をしてもらいました。)

ここで、全部使ったからGoodとかBadとか言うつもりもありません。ただ、ムスメが「使わない」・「一部使う」・「全部使う」という複数の(しかもどれだけ という程度を伴う)選択肢の中から自分で意思決定をし、しかもその態度に微塵も逡巡がなかったということは、僕には印象深く映りました。

意思決定には必ずトレードオフがあります。それはお年玉の使い方であろうとビジネス上の投資だろうと全て同じ。何かを選択したら、何かを諦めなければなりません。そして、自分の下した意思決定には常に認知的不協和が発生するもの(ああしておけばよかった、とか)。そうした状況といかに上手に付き合って、意思決定をしていくか。これは子どもの頃から経験を積んでおくに越したことはない、大切なプロセスだと思うのです。

 

 

 

お正月読書

明けましておめでとうございます。世間は今日から仕事始めというところが多いようですが、僕の日本の勤務先は今日まで休み。自動車業界はおおむねそのようですね。一方、僕のタイの勤務先は今日が仕事始め。どちらに所属しているのか不明確な自分はどちらのカレンダーにも縛られず、気ままに仕事をしたりブログを書いたりしている次第です。

さて、この年末年始は久しぶりに自宅で過ごしました。ヨメの出産が間近ということで遠方に出かけることはできない(産院から1時間以上離れるのはやめよう)こともあって、年末年始は主に自宅・両親宅・親戚宅で過ごすという日本らしい年末年始の姿に。

この休み中、ムスメと遊んだり、親戚と酒宴を囲んだりといった時間以外は、主に読書をしていました。日本では紙の本が手軽に手に入る(海外にいるときにはKindle版のみ)ので、かねてからAmazonの「ほしい物リスト」に入れていた紙の本をオーダーし、また本屋で思いつくままに購入し、手に取りました。未読了のものも含めて、以下の通りです。

 

大君の通貨―幕末「円ドル」戦争 (文春文庫)

大君の通貨―幕末「円ドル」戦争 (文春文庫)

 

経済小説歴史小説として文句なしに面白かった。幕末の開国に際して設定された為替レートをめぐる米英駐在代表と幕府との駆け引きたるや・・・。

 

クアトロ・ラガッツィ (上) 天正少年使節と世界帝国  (集英社文庫)

クアトロ・ラガッツィ (上) 天正少年使節と世界帝国 (集英社文庫)

 

 グローバル化を志向するローマ・カトリック教会が中国・日本という高度な文明に出会い、そこでいかに事業を拡大・成功させようとしたのか?という視点で読んでいます。また、当時のスターである織田信長の思考を追っていくといった読み方も楽しい。

 

いま生きる「資本論」

いま生きる「資本論」

 

 講義録をかなり端折って書籍化しているので、わかりにくいですが、資本論というものを読んだことのない僕のような人には、入門書というかきっかけづくりにはなるかな。

 

ハドリアヌス帝の回想

ハドリアヌス帝の回想

 

 ライフネット生命の出口会長の愛読書ということで、絶版ながら中古で購入。読み始めたばかりですが、静かに一人で読むべき本ですね。ローマ五賢帝の一人ハドリアヌスの晩年の自伝という体裁で書かれた小説。

 

 

ダブルギアリング 連鎖破綻 (角川文庫)

ダブルギアリング 連鎖破綻 (角川文庫)

 

 真山仁という作家のファンで、彼の作品はすべて読んでいるのですが、そのデビュー作(共著)です。大手生保の生き残りをかけた葛藤を描いた小説ですが、僕自身が就職活動をしていた当時の出来事ということもあり、生々しかったです。

 

 

 

 

ニッポンの仕事観 仕事は辛く大変なもの?

「お父さんは昼間、会社で汗水垂らして頑張って働いてる。そのお給料であなたはご飯が食べられている。」こんな話を母親から聞かされたことのある人は多いと思います。汗水垂らして、という言葉が入っているかは別として、このセンテンスから読み取れるメッセージは、「仕事は大変なもの」であり、その大変なものに取り組んだ犠牲の対価として報酬額与えられ、家族はそれに依存している、というものです。

仕事は犠牲であり、報酬はその対価。ごく当たり前に受け止められているこのメッセージですが、僕にはすごく異様に感じられます。まず、仕事は面白く楽しくあるべきだし、報酬はビジネスに貢献した配当として受け取られるもので、犠牲の対価ではない。もちろんお金を稼ぐために働くという側面があるのは事実だし、現実に生活していくためにはそれも大事。でも、ベースにある仕事観として冒頭のような姿というのは、やはり健全ではない気がします。

藤沢周平作品が好きで、映画でも何作か見たのですが、多くに共通するのは東北の貧しい藩「海坂藩うなさかはん」の下級藩士の生活ぶりが描かれていること。
ただでさえ貧しい藩、それも下級武士となると、主人公たちの仕事も地味で、とても楽しんでいるようには見えない。それでも、父祖から受け継いだ大切な「お役目」を黙々とこなし、時には理不尽な扱いにも我慢する。楽しいとは言えないお役目も、それを終えて帰宅すると家族は三つ指ついて「お帰りなさいませ。」と迎え、父を尊敬し禄高は少なくとも家族愛に満ちた生活をしている。

日本のなかには、こうした原風景、仕事観といったものを尊いと感じる文化的なベースがあるのでしょう。なかなかそれを変えるのは容易ではない。でも、仕事に楽しさを見出だすことは、家族にとっても大切な事だと思います。少なくとも僕は、仕事を楽しんでいる父親でありたい。

さて、エンジョイ・ワークの国タイランドから、日本に向かいます。

会社は友達を作る所じゃない?

「会社は友達を作る所じゃないんだ!しゃべってないで仕事しろ!緊張感を持て!」というのはよく日本の職場で聞かれるセリフです。間違ったことを言っているわけではないし、そうだよね、無駄話してないで仕事しなきゃね、と頷ける。

でも、職場内のコミュニケーションは、多い方が少ないより良いはず。コミュニケーション不全で悩んでいる組織は多いし、そのために社内SNSを導入したりオフサイトミーティングを開いたりと、いろいろな工夫をしている。一方、コミュニケーション過剰、無駄話をどう解決するか?といったテーマのビジネス書なんて見たことがありません。この矛盾はなぜ起こるのでしょう?


タイの会社のオフィスでは、日本と比べるとかなり職場内のおしゃべりが多いように思います。まず女性が大半を占めるし、その上おしゃべり好きの割合が多い。タイ語のわからない僕には、無駄話なのか業務上のコミュニケーションなのかわかりません。ただ、何だか楽しそうにしています。仕事=辛く苦しいもの  という変な固定観念のある日本の風土では、この光景はすなわち「仕事していない」と映るでしょう。緊張感が足りん!仕事ってのは真剣な眼差しでやるもんだ!と。

でも、この緊張感の足りないオフィスで業務が停滞しているか?というとそうでもない。離職率も、他社と比べるとかなり低く安定しています。これは人材会社の方も驚いていたレベルなので、恐らくそうなのでしょう。なんだ、職場のおしゃべり、いいじゃない?緊張感?なくてもいーんじゃない?と。


自身を振り返ってみると、緊張感溢れて人間関係のギクシャクしていた会社より、年齢の近い同僚とわいわいやりながら仕事していた会社の方が仕事の充実感もあったし、パフォーマンスも高かった。その上、その会社のメンバーとは「仲間」と呼びあい今でも友達付き合いをしています。会社で友達を作ってしまったわけですね。


結局のところ、職場の良好な人間関係は業務のパフォーマンス向上や離職率の抑制に有効で、おしゃべりも人間関係の形成に資する有効なツール、と言えるのではないかと思っています。

仮にそれが業務とは無関係の「無駄話」であったとしても、人間関係を良好にするという意味では悪くはない。それが原因で会社に損害を与えるような職種ではなく(当社でも製造現場のオペレーターは私語禁止です)、人事評価が成果と能力にフォーカスしていて無駄話だけをしに会社に来ている人を排除する仕組みがあるのなら。


どうも日本の伝統的な仕事観というのは、「~道」に近いものがある気がします。だから、道場に掲げられているような標語、「酷苦勉励」とか「真剣勝負」とかいったものがオフィスにも掲げられていたりするのでしょう。

ただ、やはり仕事と「~道」は違います。チームプレーである以上、しかめ面だけではね。。。






日本は何はともあれ成熟した社会

衆院選の話題は海外にいるとあまり身近に感じないのですが、今回は日本滞在中に不在者投票したこともあり、自分の選挙区の結果だけはチェック。残念ながら、というべきでしょう、投票した候補者(愛知で減税を訴える地域政党の候補者)は落選し、自民党候補が圧勝していました。投票前からこうなることはみな予測できていたはずで、いかにマスメディアが「大義なき解散」を叫んだところで、解散そのものに違法性がない以上どうなるものでもありません。

アベノミクスの是非を問う、というのが「争点」だったと新聞には書いてありましたが、それも怪しいもの。国民はアベノミクスが今後引き起こす経済へのインパクトについて理解をしていたか?と言われれば、そうではない。というか、世界中が「どうなるんだろう?」と興味津々で見ているくらいだから、誰もその帰結を予想できない状況なわけで、国民にできたことと言えば、「他と比べてどこがよりマシか?」という消去法的選択にならざるをえない。

結果として、アベノミクスペリメント(アベノミクスの実験、エクスペリメントをかけた僕の造語)にあと数年の時間と資源を投じるという賭けに掛け金を投じるという意思決定がなされた。それが吉とでるかはわかりませんが、実行を中途半端にすることなく、やることをやる、ということでしょう。

それにしても、日本が総選挙において国民に選択を問うたテーマはとても抽象度が高く難しい。与野党の主張にほとんど差異がなく、自民党が好きか嫌いかしか選択の根拠がないような状況。これはいかに日本の経済社会が成熟しているか?を表しているように思います。言い換えれば、誰に、どの政党に投票しようが、個人の生活にダイレクトに損得が発生するようなリアリティーあるトピックは争点にすらならない。誰も見通せないような中長期的な課題や正解のない問いかけに有権者が晒されている。

当地タイでもそうですが、途上国の多くでは選挙というのは文字通り血が流れるほどのリアリティーを持っており、誰が勝つか?で個人の生活にダイレクトに影響してくるケースが多い。だから、出稼ぎの労働者であっても、タイでは仕事を休んで故郷に投票しに帰るといったことが当たり前に起こります。争点は明確で、どのグループが経済的利権を手にするか?が露骨に争われる。個人にとって、投票行為には「正解」があるのです。あとは数の勝負になる。だから投票率も高い。

日本は戦後の歴史を通じて、そうした血の出るような対立構造を経済成長の果実の分配によって少しずつ解消し、現在ここに至って「国民全員」の直面する課題に向かうための選挙をしている。成熟した社会のあり方として、これはこれで健全なのではないか?と思います。


タイの会社イベントに学ぶ組織活性化のヒント

タイの会社における一年でも最大級の社内イベントは、クリスマスシーズンに行われるニューイヤーパーティーです。厳密にはまだニューイヤーではない時期に開かれるのですが、一般的にニューイヤーパーティーと呼ばれ、全員参加のイベントとして定着しています。

内容は様々なようですが、共通する特徴として、すべてが社員自身による企画と運営で行われること、お揃いのTシャツを作るなど「団結」を表現するケースが多いこと、スポーツを絡めたアクティビティが含まれることなどがあるようです。

今年は当社が本格的に稼働して会社らしくなって最初の年末ということで、ニューイヤーパーティーに向けて会社内は異様な盛り上がりを見せています。「おいおい、会社のイベントでしょ?そんなの盛り上がらないでしょ?」というのは日本の常識。タイでは日程を決めて発表した瞬間から、リーダー(自然発生的に仕切る人が出てくる)を中心に企画運営チームが組織され、イベントのコンセプト、Tシャツのデザイン、チームビルディングのためのスポーツイベント企画、パーティーの場所選定と福引きなどのイベント企画、メニュー選定などなど、あらゆるタスクが一気に進められていきます。その姿は、日頃のんびりと仕事をしているメンバーとは思えない統率とスピード感。ああ、タイの人は楽しむことに貪欲、そしてエンジョイすることが得意なんだなあ、と改めて感じます

何よりも、そうしたイベント企画と実行に際しては、組織の壁などなく全員がひとつになって取り組んでいるという点が印象的。企画運営の過程で、部署の壁がなくなっていき、新しいメンバーも自然にチームに溶け込んでいく。イベントの当日だけでなく、その準備の過程が一つのチームビルディングの場になっている。まだ生まれたばかりの当社にとっては、そうした機会は何よりも大切です。
Tシャツの背中に記されたイベントのコンセプト、嬉しくなりました。「We work together, We are one team.」

仕事を抜け出してイベント会場の下見に行ってしまうなどちょっと目に余るところもあるけれど、組織活性化のプロセスだと思えばそれもまたよし。当日が楽しみです。


出城を守っていたら本丸が焼け落ちて・・・

今回の日本での滞在は、主に「本丸」であるところの日本本社の将来に向けた活動という位置づけでした。新しいマーケティング施策の準備、組織強化提案、人材の採用 などに関する活動を集中的に行いました。

タイ事業もまだ軌道に乗ってもいないというのに、その前線を離れて本丸を強化するというのは一見奇異に見えるかもしれません。前線に置かれた出城を放ったらかして、本丸の塀やら石垣やらを強化しようとしているのですから。しかし、海外という「競争の最前線」で戦況と敵情を知れば知るほど、日本という本丸の事業脆弱性を一日も早く何とかしなくてはならないという強烈な危機感に襲われるのです。それが、今回のような出張という形で、また来年からは日本滞在の比率を大幅にUPさせるという形で行動しつつある理由です。

出城が出城として機能して有効に戦を進めていくには、本丸と複数の出城との連携・ネットワークが欠かせません。出城で得られた情報は逐一本丸に伝えられ、対局的な視点でネットワーク全体を生かした作戦が作られ、徹底して実行される。逆もまたしかりで、本丸で得られた大局的な情報や判断はシームレスに出城に伝えられ、現場レベルでの意思決定に反映されなくてはならない。ネットワークのハブに位置するのは本丸で、そこには優れた人材とノウハウと、大きな絵に基づく意思決定機関とが存在しなくてはなりません。

最前線である出城にももちろん有能な指揮官は必要ですが、そこに戦力と資源が集中されていると、どうしても局地戦での視野に引っ張られて偏った意思決定と行動がとられてしまいます。事件は確かに現場で起きているのですが、複数の現場の状況を把握して最適な資源の配分と意思決定をするには、やはり会議室に置かれた参謀本部が必要。出城が本丸に指示したり動かしたりというのは望ましくない。これが僕の考えです。

今僕の目に映っているのは、そんな重要な本丸がハードとソフト両面での研鑽を怠った結果、石垣は崩れかけ、堀は埋まり、武将の士気は失われつつあるという情景です。このままでは、「出城を守っていたら、いつの間にか本丸が焼け落ちていた」という状況になりかねない、そんな危機感が強く僕を支配しています。

クリスマスの頃には、また日本にやってきます。プライベートの重要イベントも控えており、次回の滞在は長期にわたる予定です。本丸の改修工事も、より具体的なフェーズへと進展させていくつもりです。