成長速度と「備えあれば憂いなし」

あっという間に一週間が過ぎました。僕は週間計画という名前でその週にやることをリストアップして終わったら消していくのですが、何とか今週も少し週末の時間を使えばリストをクリアにできそうです。
事業の成長速度について今回は書きたいと思います。とにかく課題の尽きないタイの事業ですが、今週は特にその「成長速度」というものについて考えさせられました。

一般的に、企業は成長すればするほど良いとされていますし、僕自身も「事業成長なくしては個人の成長もなく、企業は成長しなくてはならない」という信念を持っています。問題は、その速度です。ベンチャー企業の経営を扱った論文などにおいても重要トピックとされているテーマなので、多くの生まれたばかりの企業が直面する課題として、特に重要視されているものなのだと思います。

現在の状況を一言で言えば、「事業の(営業的な)成長が速すぎて、組織が追っつかず、前のめりにぶっ倒れて転びそうだ」ということです。売上ゼロから一気に駆け上がっている状況なので、成長率=無限大。ある程度の軋みは出るだろうと予期していましたが、いやはや大変です。
当社は製造業で、また海外進出による事業スタートですから、ある程度のハードウェアは装備してきています。工場・設備・業務システムなど。その点、ガレージから創業するようなベンチャー企業とは全く条件が違います。恵まれている、と言うこともできるでしょう。
とはいえ、どれほどハードウェアが揃っていても、それをオペレートするのは人間です。それも、入社して3ヶ月前後の素人集団。さらに、そのメンバーの大半とは言葉が通じません(一部の英語・日本語を話すスタッフを除く)。駐在スタッフによるトレーニングも、コミュニケーションの効率が悪くなかなか効果が出てきません。
一方、営業的には大々的に「日本・中国・タイをシームレスにつなぐ生産活動」というコンセプトを売り込んでいますから、顧客からの期待値はとても高い。ハイレベルな要求がどんどん舞い込んできます。ガレージで創業したベンチャーとは違った面で、苦しいアンバランスが生まれてしまうのです。

備えあれば憂いなし、といいます。この状況を見越してもっと早期に人員を増強し、日本の工場に研修派遣して準備していたら、今の状況は避けられたかもしれません。あるいは、トレーニングの効率を上げるため、言葉のわかる人間だけを選別して採用していたら? タイでの工場運営経験のある人材を現地採用していたら? いくつもの「取り得たオプション」を思いつくことはできます。

なぜそれができなかったか? 一言でで言えば、「売上ゼロ、という先行き不透明の状況で、意思決定することができなかった」ということです。事業の未来に対する信念が欠けていた、と言えるかもしれません。それだけのコストをかける、先行投資をするという判断が、僕にはできなかったのです。
ソフトバンク孫正義氏は、身の丈に合わないと言われながらも天文学的な金額の借入をしてまで先行投資を続けてきました。それができるのは、「デジタル情報革命を推し進めれば、豆腐屋のように利益を一丁(一兆)、二丁(二兆)と数えられる事業になる」という確信があるからです。だからこそ、超高速な事業成長にもきっちりと備えをして臨むことができた。彼には、憂いは欠片もなかったでしょう。

高速運転を制御できないドライバーは、ブレーキを踏んで安心できるエリアまでスピードを下げなければ命を落とします。未来を見通せない事業では、成長スピードが遅くなるのですね。悔しいです。














ビジョンは国境を越えているか

前回の記事で、立ち上げ期を抜け出しつつある組織、つまり僕の所属するタイの子会社2社、の統合理念の喪失に対する危機感について書きました。ここでは統合理念といっていますが、実際のところよく使われる言い方にすると、ビジョンということになります。我々はいったいどんな未来に向かっているのか、そこに至る道筋にはどんなストーリーがあるのか。組織が一つの方向に向かっていくには、ビジョンとストーリーがメンバーの理解と共感を得ていることが大切です。

ところで、僕がここタイの事業に臨む際に抱えてきたビジョンは、「スモール・グローバルカンパニーになる」というものです。見まごうことなき中小企業、スモールカンパニーである当社を、すでに事業活動を行っている中国にとどまらず、タイ、さらに米州も視野に、小さいながらもスピードと実行力で大企業を打ち負かすグローバルカンパニーにしたい。大まかにいうとそんなビジョンとストーリーを持ってやってきたわけです。

そこで直面した立ち上げ期の興奮状態からの脱却。統合理念としてのビジョンを、メンバーにしっかりと語り、ストーリーを共有して前に進んでいくべき時期にきています。ところが、どうも上記のビジョンでは具合が悪いような気がするのです。タイで一緒に仕事をしているタイ人スタッフを理解すればするほど、彼らはこのビジョンに共感も興奮もしないんじゃないか?という直感が湧いてくるのです。

理由は、グローバルという言葉にあります。「グローバル企業になりたい、いいじゃないか」と思ったりもするのですが、当社はタイというローカル市場を事業領域として、ローカル市場で勝つためにやってきている。ローカルの積み重ねがグローバルではあるのですが、タイで当社に参加したメンバーにとっては、タイは「母国」なんですね。
日本本社から派遣されたメンバーや本社のメンバーは、タイでの子会社の設立と成長を見て、「いよいようちもグローバルになったなあ」と慨嘆することもあるのですが、それは日本に視点を置いているから思うこと。タイで新たに参画したメンバーにとっては「?」なのです。

僕が抱えてきたビジョンは、飛行機に乗って僕と一緒にタイにやってきたわけですが、結局のところ、どうも「国境を越えていない」ビジョンになっているようなのです。グローバルといういかにも国境を意識しない言葉が込められていながら、何とも皮肉なものです。

ドメスティックな中小企業からの脱却、という自社に対するある種のオブセッションから発生した、「小さくてもグローバルになってやるんだ」という気概は、国境を越えて人々を統合するにはいささか独りよがりだということかもしれません。

「立ち上げ」の興奮とその後の罠

タイにおける子会社2社の「立ち上げ」という仕事をスタートして約2年(日本における準備活動も含めて)が経ちました。ちょうど2年前の今ごろ、海外における新拠点の候補としてタイという場所が挙がり、さて検討してみようかという動きが始まったわけです。

実際にタイに拠点を置いてから1年と3ヶ月。ようやく工場における生産活動は本格化し、毎月の売上とコストを数値として追いかけられる環境になりました。これまでは売上ゼロだったわけですから、⚪︎⚪︎率を計算しようにも、分母がゼロで計算できないという有様。そう思えば、ずいぶんと立派になったものです。もちろん、まだ赤字経営で、とても経営とは言えない状況ですが。

そんな中で、僕がいま直面しているのは「立ち上げという興奮から抜け出した後の罠」ともいうべき状況です。
何かにつけて、「ゼロから始める」「スタートを切る」というのは大変なもので、当事者の精神状態もある種の興奮状態に置かれることが多い。それは第一号のメンバーとして乗り込んだ僕だけに限らず、タイ人スタッフ、駐在員も皆、程度の違いこそあれ似たような興奮状態に置かれます。
机も椅子もなかったところにオフィスらしき形が整い、スタッフが増え、機械が搬入されて、物質的な会社の形ができてくる。やがて機械がうなりを上げて動き始め、何やら製品のようなものが出来てくる。待ちに待った顧客からの初オーダーがやってくる。どの一つ一つも、みな記念日であり、喜びです。そこには、ミッションやビジョンといった高尚なものは必要なく、ただただ毎日何か新しい成長があり、進化がある。もちろん問題も山積みなのだけれど、それは「やらなくてはいけない宿題」というよりは、コース料理でどんどん次の料理が運ばれてくるのを待つような感覚に近い。

ところが、やがてそうした興奮状態から抜け出す日がやってきます。受注は日常化し、毎日同じような姿形をしたオフィスに出社して、どこかで見たことのある問題を解決することの繰り返し。立ち上げに邁進していた時に見えていた景色はいつしか彩りを失って行き、ふと立ち止まると「何のために?」という疑問が頭をもたげてくるのです。「事業立ち上げのために」という統合理念によって一つにまとまっていた組織が、その興奮状態から覚め、新しいステージに入っていく瞬間です。

「立ち上げるために」という統合理念の推進力を失った組織は、次第に弛緩してきます。ゼロスタートの頃の景色を見たことのないメンバーが増えてきて、現在の姿が当たり前だといった発言や、不足するリソースに対する不満の声が散見されるようになる。当然ながら、内部対立も表面化してきます。目的地なく漂流する船のように、どことない違和感が饐えたような匂いを放ち始めるのです。

幸い、まだ僕の眼前に広がる光景からは、そうした悪臭はそれほど感じられはしません。ただ、それも時間の問題だと感じています。今は、日本人・中国人・タイ人という事なるバックグラウンドを持つ人々を束ねる一つの統合理念をどう生み出して伝えて行くかを考えています。

 

 

 

 

 

 

1年半ぶりのブログ投稿

1年半ぶりのブログ投稿です。合計700回近く更新されているこのブログでも、過去に何度か1年以上の空白期間が生じたことがあるのですが、中断の理由は「特になし」というものばかり。体調を崩したとか、仕事がめちゃくちゃ忙しくなったとか、そういったエポックメイキングな出来事なく、ふうっとロウソクの火が消えるように、中断されてしまう。不思議なものです。

ひとつ言えることは、こうした形で何かをアウトプットする、したいという気持ちになったことは何はともあれ良い事だということ。以前にここで何度か書いた通り、アウトプットなくして良質のインプットなし、なのですから。どうして継続できないんだ!!バカバカバカ!と自分を責めて反省を迫るより、「まあ、結果オーライでしょ」と再スタートをさっぱりした気持ちで切る方が、僕には性にあっている気がするのです。

さて、この1年半の空白期間で、僕の生活は大きく変わりました。名古屋から生活の拠点がタイ王国に移り、1ヶ月の半分以上をタイで過ごす、日本の家族の元には「出張」という形で月のうち1週間ほど帰るというパターンが定着しています。事業会社2社の立ち上げとその経営のため、というのがタイ滞在の目的で、自分の仕事に投じる時間の90%まではタイの事業に振り向けられています。

Bond大学でのMBAコースを終えて、「Global Leadership MBA」なんていう学位を取ったのはいいけれど、それを実践の場で鍛え上げ磨き上げる機会がなければ、とぼんやり考えていたところに降ってわいた自社の海外拠点新設。すいすいと流れに沿って泳いでいたら、気がついたらタイの地でビジネスをしていたということで、これは本当に運命というか、何か不思議な縁を感じてしまいます。

そして、泳ぎ着いた先でのタイでのビジネス経験というのは、これはまた本当にかけがえのないものです。まだ本当の勝負は始まっていない、スポーツで言えば準備運動のようなステージにいるわけですが、それでも頭が毎日ぼんやりとするくらいの刺激と学びを与えてもらっています。

ここでは、これからそんな学びも交えて、またいろいろと書いて行きたいと思います。

7インチタブレットとともに過ごす早起き時間

 冬になると早起き活動を始めるという不思議な習性を持っています。誰しも寒い朝に布団から抜け出すにはエネルギーが要るもの。好き好んで冬場にだけ早起きなんてことをする人はいないのではないか?と思いますが、僕自身が早起き活動を始めるのはたいてい冬だったりします。そして、春が来るころにはいつもの生活に戻ってしまう。
 冬という季節そのものが好きということもあるし、何より冬の朝のキリっとした空気感と、徐々に明けていく空の雰囲気が何より気に入っています。今こうして文章を書きながら、振り返って窓の外に目を向けると、オレンジ色と薄いブルーとのグラデーションがとてもキレイで、何となく満たされた気持ちになって笑みがこぼれてくる。
 さて、そんな冬の早起きで生み出された時間を、最近はもっぱら読書に充てています。GoogleがリリースしたNexus7という7インチ型タブレットを手に入れてからというもの、電子書籍を読むということが以前よりもはるかに手軽に、そして苦痛なくできるようになりました。世間では7インチタブレットに対して賛否両論あるようですが、読書端末としては圧倒的に使い勝手がいいというのが僕の実感。何より、片手でホールドしていても全く疲れないという点。これは700gを超える重量を誇るiPadではありえないことで、ある程度まとまった時間を読書に使う人にとっては「持っていて疲れない」という点だけで軽くiPadを凌いでしまう。ハードカバーの書籍になるとiPadよりもさらに重いなんてことはざらにあり、読む場所を選ぶ(ソファに寝転がってとはいかず、テーブルのあるところでないと読めない)のですが、7インチタブレットであれば、どんな大著であっても手の中に納まってしまいます。
 電子書籍専用端末がどんどんと世に送り出されている昨今ですが、仕事も含めたトータルでの利便性を考慮すると、eインク画面の見やすさという点をはるかに凌駕する利点が、7インチタブレットにはあると考えざるを得ません。当面は、この端末を片手に時間を過ごすことが多くなりそうです。
 
 

事件は現場で起きているが、それを正しく理解するには全体としてのストーリーが必要

「事件は現場で起きている」は、ビジネスの現場でもよくささやかれる言葉です。主に現場サイドの意見として、現場の最前線の状況を知らない組織の上層部を批判する際などに用いられることが多い。テレビドラマの中で使われたセリフが、これほどビジネスにまで浸透するというのも珍しいことです。それだけ、組織の本質を突いているということでしょう。

でも、そうしたキャッチフレーズを使う際は注意が必要です。使っている本人が、いつしかそのキャッチフレーズの意味するところを「当然のこと」として受け入れてしまうことになりがちだからです。今回の例で言えば、 「事件は現場で起きている。だから、現場の人間のほうが適切な判断ができる」と、テレビドラマの中の状況を現実に置き換えて、自分の価値判断を決めてしまう。時にはドラマの中の状況が真実であることもありますが、そうではない場合もあることを忘れてしまう。それがキャッチフレーズの危うさです。

ビジネスの現場でよく目にするのは、「現場には確かに情報があるけれど、それを組織の目的達成に向けてうまく活用できていない」という状況です。お客さんがもらしたちょっとした情報、それをしっかりと記録し他のお客さんからの情報と合わせて、 「要するにどういうことなのか? 」を考える。あるいは、あらかじめ立てた仮説ストーリーの中で、その情報がどんな意味を持つのかを考える。さらに、その仮説ストーリーを検証するために、新たな情報を取りに行く。そうした活動ができていない。

現場に存在する情報のひとつひとつは、 点にしか過ぎない。そうした点をつなぎ合わせて一本の線にしていくためには、ストーリーが必要です。現場にある情報にストーリーというスパイスを加えることで、それらは瞬く間に光を放ち始め、大きな意味を持つものになっていく。そんな点から線への変化は、現場で活動する一人一人の心を躍動感で満たしてくれる刺激的な体験です。

そうしたストーリーを考えるのが経営者の仕事なのか現場の仕事なのか、よくわかりません。ただ間違いなくいえるのは、現場から遠いところにいては、ストーリーは生まれないだろうということ。また同時に、現場に埋没した日々を送っていても、やはりストーリーは生まれないだろうということ。僕自身の今の仕事を振り返って考えても、現場からの適度な距離感というのが最も重要で、最も難しいと感じます。

一日を生産者として始める。実践編

先日ここで紹介した、一日を生産者として始めるということについて、いくつか実践してみたので感想を書きます。
まず自分でも一番気に入ってるのが、朝食をきちんと作るということ。オムレツを焼き、簡単な野菜炒めを作ったり、パンを焼いたり、コーヒーをいれたり。ほんの15分程度でできる作業ですが、一日がとても豊かに始まる感じがします。好き嫌いの多い娘もオムレツは大好きなので、とても喜ばれます。気分が豊かになり、家族にも喜ばれ、健康的でもある。素晴らしいことですね。
次に、やはりこうしてブログを書くというのもいいと思います。寝ている間にふと思いついた事や、昨日まで頭の中でモヤモヤ考えていたことを、文章にしてみる。すると、自分でも考えてもいなかったようなアイデアが湧いてきたり、モヤモヤがまとまったりしてくる。この、文章化することの効用というのは、以前にもここで書きましたね。
朝というと、新聞に目を通したり、テレビのニュースをチェックする、という人が多いと思います。自分の親の世代は当然のようにそうしてきたし、テレビドラマの中でもそれがあたかも当たり前のことであるかのように表現されています。
でも、朝にニュースをチェックする、というのは一昔前のモデルのような気がします。紙の新聞を主に読んでいた時代は、朝にならないと前日の出来事のことがわかりませんでした。通常、朝刊の記事の締め切り時刻というのは夜中の1時なので、それから編集して印刷して配達して、というプロセスを経るとどうしても朝になってしまいます。だから、当日の朝に前日の出来事を知る、というのが当たり前になった。
でも今は違います。ニュース記事はリアルタイムに近い形で配信されます。その日の出来事を知るのに、翌朝まで待つ必要ないのです。その日のうちに、夜のうちに、チェックしてしまえばいい。
これからは、テレビドラマの中でも、朝は朝食を作る、コーヒーを入れる、ブログを書く、みたいな行為があたりまえになるといいですね。