現実を直視する 「かもしれない運転」の経営

運転免許を取るために通った自動車学校。もう10年以上前のことなのでほとんど覚えていませんが、唯一といっていい記憶の中に「かもしれない運転」というのがあります。クルマを運転しながら、「まさかこんな道で飛び出してくる人はいないだろう」「まさかここで前の車が急ブレーキを踏むことはないだろう」と決めつけるのではなく、「もしかしたら人が飛び出してくるかもしれない」「もしかしたら前の車が急ブレーキを踏むかもしれない」と、かもしれない運転をしなさいよ、と。
一見大丈夫そうに見えて順調にドライビングをしていても、いつも「かもしれない」の意識で注意深くいるということ。ビジネスの世界でも、「かもしれない運転」がいいと僕は思っています。業績が順調に推移しているように見えても、実はその底流で近い未来に暗い雲を投げかけるような事象が進行しているもの。「過去の業績は順調だけれど、その影でもしかしたらこんなことが起こっているのかもしれない」という意識でデータを洗い直してみる。そして、データの中から見えてきた現実をしっかりと直視して、警鐘を鳴らし危険回避に向けた行動を断固として実行していく。
当然ながら「かもしれない運転」をするためには仮説が必要です。業績好調の中でも、「競争が厳しくなって受注成功率は下がっているかもしれない」「特定の得意先に売上が偏っているかもしれない」「従業員が繁忙の中でモチベーションを下げているかもしれない」など、一般に考えられることだけではなく、業績好調の中では起こらないだろうと思えるようなことも含めて、様々な可能性を検証してみる必要があるわけです。
いくつかの「かもしれない仮説」を用意したとして、ここから先のプロセスには二つの障害が待ち構えています。一つは仮説を検証しようにもデータがない。二つ目はデータがあって分析して出てきた現実を、自分も含めた社内が直視できない。
実のところ、この二つ目の障害が特に厄介です。データは雄弁に危機の進行を物語っているのに、業績が好調であることに起因する自信や社内の雰囲気への配慮などが先行して、その現実と正面から向き合うことができず、様々な理由を持ち出して事実を捻じ曲げてしまう。捻じ曲げている認識がないままに、いつの間にか捻じ曲げられているところが怖い。これは、データを分析した当人でも陥るワナです。
登場する捻じ曲げ理由はさまざまですが、ありがちなのは、以下のようなパターンでしょう。

  • 「データの分析や計算が間違っているのでは?」とデータそのものを疑うケース
  • 「うちの業界は特別だから」と業界や自社ビジネスの特殊性を唱えるケース
  • 「みんなこんなに頑張っているのだから、水を差すな」と社内ムードを優先させるケース
  • 「しばらく様子を見てみよう」と、問題解決を先送りして実質的に無視するケース

現実を直視するのは難しいです。理性で理解できたとしても、これまで頑張ってきたのだから、とか、解決策の実行は大変そうでイヤだ といった感情の部分がそれを受け入れることができず、思わずその感情に突き動かされて反応してしまう。だからこそ、組織として「かもしれない運転」の風土を作っていくこと、いい意味での緊張感やデータ重視の文化をあらかじめ作っていくことが大切になるのだと思います。

 日本の製造業にまつわる壮大なファンタジーについて

ここ数日は主に工場で仕事をしていました。これからも、工場で過ごす時間は長くなる予定です。そんな訳で、「日本といえば製造業、ものづくりの国でしょ!」というよく言われる話について考えてみようかなと思います。
結論から言うと、僕は個人的にこの「日本=ものづくり」という話には全く同意していません。同意していないどころか、政治家やマスメディアがこうした論調をあおるせいで日本人のイメージが固定化され、ずいぶんと被害を蒙っているとすら感じています。特に、「誰にも真似のできない職人の技が日本の強さ」などと言われると、少し唖然としてしまいます。
確かに、日本製の電化製品や自動車が世界を席巻し、Made in Japanが本当の意味でのブランドだった時代は長かったと思います。世界の多くの人が日本製のモノに憧れたわけです。なぜか?
日本がブランド化した理由は、その「安定した品質」ではないでしょうか。つまり、「異常なくきちんと動く」。上記のとおりマスメディアは「日本=ものづくり」をあおるのが大好きなので、今でもMade in Japanを信奉する海外の方をインタビューしたりしていますが、そうした人々が口を揃えて言うのは「長く使っても壊れない」「過酷な環境でもきちんと動く」という話ばかり。ブランドはブランドでも、イタリアの衣料品やスイスの時計などとは全く違う理由でMade in Japanがブランドを確立していたことがわかります。それは、「イレギュラーがない」ことに起因するブランドだったわけです。
では、時代が改まって現在、そうした「イレギュラーがない」ことについて世界はどのように変わっているか。考えてみれば明らかで、「そんなの当たり前」という環境になっている。僕がこのブログを書いているMacbookは台湾の会社が中国で作った製品ですし、家庭内の電化製品のほとんどは海外で作られていますが、壊れたり異常な動作をすることなどありません。「そんなの当たり前」なんです。
「イレギュラーがない」ことというのは、「できて当たり前」の次元に到達してしまうとそれ以上の進歩がない領域です。一歩一歩努力を積み重ねて高みを目指せば、誰しもがいつかは到達するし、到達したらみんな同じレベルになる。一方、美しいスイスの時計やおしゃれなイタリアのファッションには「上限」などというものはありません。美しさや洗練された感性というのは、一歩一歩レベルを上げて行くという種類のものではない。だから、「追いつかれる」こともないし「追い抜かれる」こともない。
現在、製造業の大半はデジタル化され、またマニュアル化されています。「誰にも真似のできない職人技」というのはきわめて限られた一部の領域に残っているだけで、そのほとんどはデジタル技術で安定的に作り出せるレベルになっている。そうした一部の職人技だって、勉強熱心なアジアの若者たちがどん欲に習得していっている。日本の勤勉な労働者が丁寧な作業によって生み出した安定品質も、今では自動化とマニュアル化によって誰でもできる「当たり前」になっている。
かつての日本の技術は、ライバルたちの猛烈な学習とレベルアップによって、とっくに「当たり前」になっているのです。それを後押ししたのは、デジタル技術であり、また日本自身が押し進めた作業の標準化という考え方でしょう。
だから今なお「日本=ものづくり」といったイメージを吹聴するのは、意味がないどころか有害だと思うのです。世界で「当たり前」になった水準をあたかも神聖なる領域かのように扱うのは、ファンタジーを通り越して信仰です。はっきりと「日本の製造業がかつて誇った優位性はもはや存在しない」と認識して、その上で何をどう構築していくのかを考えなければいけません。
もちろん、製造業の中にも依然として日本が世界を圧倒している分野はあります。それは主にデジタル化されない領域。品質に影響を与える要素が多数存在して、コンピュータでは最適値を割り出すことができないような分野など。そうした技術領域に強みを持つ個々の企業レベルでみれば、過去の経験の蓄積を活かして当面は戦いを優位に進めることができるでしょう。ただ、こうした領域はとても狭く、またデジタル技術の進歩により、年々狭くなって行くということを忘れてはいけません。

手間をかけると愛おしくなる 自分で作るということ

最近、ヨメが自宅でパンを作ったり、豆腐を作ったり、ベーコンを作ったり、はたまた果実酒を作ったりしてくれます。普通はスーパーで買って来るのが当然というものを、自宅で作る。僕が育った家庭はそういうことに関心のない家庭だったので、「買ってくるのが当たり前」なものたちがどんどん自宅で材料段階から作られて行くのを見るのはとても新鮮です。
そうしてゼロに近いところから家族の手で作られた食べ物は、自然と美味しいと感じるものだし(本当に美味しいのです)、何より食べるという行為そのものをある種の「愛おしさ」とともに体験することができているような気がします。ありがたいなぁ、素晴らしいなぁ、と。美味しさという感覚に、そうした愛おしさまでが加わると、実にすがすがしいものです。
以前にこのブログでも紹介した禅についての本の中で、「同じコーヒーを淹れるにしても、コーヒーメーカーではなく、豆を煎り、自分でひいて、ゆっくりとお湯を注ぎながら時間をかけて用意した一杯は、まったく違った存在になる」というような記述を読んで「ほお」と思ったものですが、時間と手間をかけて自分の手で作る/家族の手で作られたものをいただくというのは、日々をみずみずしく、大切に生きる上でとてもいいものだと感じます。
「産業化社会で人間性が失われている」などという紋切り型の話しをするつもりはありません。利便性の高まったおかげで、これまでできなかったことが沢山できるようになったり、快適になったりしているのは間違いのない事実なのですから。そこに、「自分で手間をかけて作る」というスパイスをi少し加えると、とても豊かな気持ちが芽生えてくるということ。
ムスメがいろいろなことをどんどん吸収していく今、そうした豊かな気持ちを家族と味わうのが「当たり前」と感じてくれるようになるといいな、と思っています。

 圧倒的な行動力が組織を変える

久しぶりに心が震える本でした。先日参加したSalesforce.comのセミナーで前半部分の講師として登壇した営業改革コンサルタント・横山氏の近著です。本のタイトルからすると、自分からはまず手に取らないタイプに見えるこの本、しかしよかった。

絶対達成する部下の育て方――稼ぐチームに一気に変わる新手法「予材管理」

絶対達成する部下の育て方――稼ぐチームに一気に変わる新手法「予材管理」

営業改革というテーマは目新しいものではなく、僕自身も過去の仕事の中でそれに近い内容を顧客に提案したり、研修を設計したことがある領域。この領域を大きく分けると、トップセールス経験者が自身のノウハウを開陳するというタイプの「トップ営業マンの秘密教えます型」と、マーケティングや組織行動論の理論に根差したロジカルな営業マネジメントで成果を狙っていく「戦略的営業型」の二つに分かれるもことが多い。(僕が設計していたのは後者のタイプ)
横山氏の考える改革のあり方は、そのどちらでもない。強いて言えば、営業改革という分野ですらないというのが個人的な感想です。営業ではなく、営業を起点にして組織・企業そのものを変えていくというアプローチだと感じました。キーワードはいたってシンプルで、「圧倒的な行動量」。営業でいえば、とにかく顧客とコンタクトをする回数を増やすというもの。「おいおい、結局ありきたりの根性論じゃないか」とここで止まってはいけない。
PDCAのマネジメントサイクルを素早く回しスピーディーに戦略を軌道修正していく者が勝つという黄金律がありあす。僕もミスミという会社で仕事をしていた頃、とにかくこの「ぐるぐる回し」を速く実行するということを叩き込まれました。問題はP・D・C・Aのどこに力点を置くか。
正直に言えば、僕は「P」に力点を置いた考え方にたった行動をしてきました。ミスミが非常に戦略プランニングを重視する風土であったことが影響していますが、そのうえでビジネススクールで学ぶといった経験を蓄積したため、さらにプランニング重視が磨かれた感じがします。優れたプランニングなくしてDo(実行)を行っても、貴重なリソースを無駄に使うだけに終わる、だからプランの切れ味を増していくことが第一なのだ、と。
もちろん、P(プランニング)が優れていれば後のD(実行)は力を抜いてもいいというわけではありません。ミスミではプランの切れ味と同時に「愚直な実行」を重視していました。ただ、この本を読み終えて今感じているのは、Do(実行)が無駄に終わることを恐れていたり、Do(実行)のボリュームを徹底的に確保することのできる組織力なくして、優れたプランも糞もないんじゃないかということ。言い方を変えれば、Do(実行)のボリュームとそれを支える組織の力がないままにプランニングの切れ味を求めても、結局のところそれは意味がないのではないか、と。
まず、仮に優れたプランができた場合であっても、Do(実行)を圧倒的なパワーで進めていく組織力が育っていなければ意味がない。また、プランを作成していくに際して不可欠な「現場の気づき」「現場感」は行動する中でしか生まれてこないがゆえに、行動なきプランニングには意味がない。2つの「意味がない」に行き当たる。
本書が僕に与えた示唆は、単に「行動がすべて」ということではありません。優れたプランニングが重要であることは変わりがない。ただし、優れたプランの完成を目指す前にすることがある、ということ。それはすなわち、圧倒的な行動量を生み出すパワーを組織に実装すること、そして行動の中から得られた現場の気づき・叡智をプランニングに反映させる風土と仕組みを実装すること。いわば、PDCAではなく、O(組織のパワー)があり、そこからD→C→Aのサイクルをがんがん回す。そして地に足の着いたPを見出していく。O ⇒ D→C→Aサイクル ⇒ P ⇒ D→C→Aという流れです。
本書では、最初のステップにあたるO(組織のパワー)の生み出し方について記されています。営業マネジャーというよりは、むしろ経営者が手に取ってほしい本だと思います。

消費するより生産するほうがテンションが上がる

大学院の同窓@nasakaswaさんのツイートで読んだLifehackerの記事「一日を消費者ではなく「生産者」としてスタートしよう!」が素晴らしかった。1日を生産者のモードでスタートするか消費者のモードでスタートするかで、1日が決まるというもの。
ここでいう消費とは、主に情報を消費すること。メールをチェックしたりニュース記事を読んだり、Twitterを見たり、外部から与えられる情報を受け身で受容していくということ。反対に生産とは、自分の頭の中にあることを文章にするなどして情報を生産すること。
自分を振り返ってみると、ソーシャルメディアとモバイルツールが身近になればなるほど、1日の時間に占める「消費」の比重が高まっていっているのを感じます。TwitterFacebookを特に何の目的もなく眺め、そこで気になった記事やリンクがあれば読んでいく。するといつの間にか時間が経ってしまう。
ソーシャルメディアの場合、テレビをだらだら見るのとは違って優れた情報に出会う可能性もあるだけに、その行為がまったくの無駄ではない。むしろ、ソーシャルメディアを通じた情報入手を始めた当初は、その品質の高さに驚いたものだし、従来のメディアとは隔絶したレベルの高さに酔ったものでした。が、ソーシャルメディアが一般化して多くの人がソーシャルメディアの場に情報を投じるようになった昨今、その品質は徐々に低下してきている。かつてはどれもが玉に見えた情報も、しだいに玉石混交になってくる。メディアがたどる当然の帰結を、やはりソーシャルメディアも辿ってきているということでしょう。
そんな中で自分の時間を生産的なものにしていくにはどうしたらいいか。冒頭の記事は一つの示唆を与えてくれました。それが、「モードを変える」ということ。記事が指摘するとおり、1日のスタートをどんなモードで開始するかによって、その日のテンションや気分といったものが変わってくるというのは間違いない。朝を軽いランニングでスタートすると1日がすごく気分よくハイテンションで過ごせるというのは自分自身も経験していることなので、この示唆はとても腑に落ちました。
さっそく、2日ほど前から行動を変えてみました。具体的には、1日のスタートをアウトプットでスタートする。ブログを書いてもいいし、1日や1週間の計画を作るといったことでもいい。あるいは、食事を作ったりするのもいいでしょう。とにかく「何かを生み出す」ことで1日をスタートさせてみる。
もう一つこれから実施しようと思っているのは、情報入手の窓口のスリム化ということ。Twitterのフォローを見直したり、RSSリーダーの登録を見直したり。Facebookについても、チェックする頻度を大きく下げようと思っています。特にTwitterは、有益な情報を提供してくれる人が、同時に個人的・些末な内容を多くTweetするので、どうしても品質が低下してしまう。ここの見直しは難しく効率も悪いので、いっそのこと読むのをやめるというのも、スリム化には効果的と思います。(Facebookのように直接の知人・友人であれば近況を知るということの価値は大きいのですが、Twitter上の見ず知らずの人がどこで何をしてるかを知ることにはあまり意味を感じないので。)
1日を生産モードでスタートすることで生産にフォーカスした気持ちを作り、情報入手のスリム化する。さっそく行動に移してみます。

 新型iPadが、というよりも日本語による音声認識が開く未来が楽しみ

新型iPadが発表され、同時にiOS5.1が発表・リリースされました。それによって、iPhone4Sと新型iPadでは日本語による音声認識入力が可能になり、人工知能Siriの機能も日本語化されました(iPadには一部機能の搭載のみ)。
さっそくネット上ではSiriに日本語でいろいろと話しかけて遊んでいる人がたくさんいるし、僕も少し遊んではみたのだけれど、Siriの知能は残念ながらまだ発展途上で、とても「アシスタント」というレベルではないというのが正直なところ。アラームやリマインダーをセットするくらいはスムーズだけれど、双方向の対話形式で情報を入手したり加工するにはまだまだ。これからの学習と進化に期待したい。
それはさておき、今回のリリースで何より素晴らしいと感じたのは、日本語をかなり正確に聞き取ってテキスト化する能力がiOSデバイスに備わったこと。ビジネスシーンでもiPadを使うことは今後どんどん増えてくるだろうけれど、ネックになっていたのは文字入力の煩雑さ。それを今回の日本語音声認識は大幅に、あるいは完全に補ってしまうかもしれない。
営業が外出先やクルマの運転中にメールに返信したり、顧客データベースにコンタクト履歴を残す。あるいは、手が塞がっていたり汚れていたりする工場の現場で、社内の情報共有データベースに情報を入力する、など。これまではキーボードがないとできなかった作業が、特にストレスなく実現できる。
また、キーボードやIT機器そのものにアレルギーがあって触らなかった人たち、タッチタイピングがあまりにも遅くて二の足を踏んでいた人たちを、テキスト入力の世界に押し出す力がある点も大きい。組織の中でITを使った情報共有に不熱心な人たちの第一の理由は、そうしたIT機器へのアレルギーと、タイピングに対するコンプレックスだったりするものなので、そうしたネガティブ感情を払拭してくれる効果が期待できる点はとても楽しみ。
日本語版Siriの能力についてはこの記事が詳しかったので、紹介しておきます。

日本語対応した「Siri」でオトナの限界に挑む!

心理学者 強制収容所を体験する

フランクルの「夜と霧」の原題は、「心理学者 強制収容所を体験する」というのだそうです。暗くしんみりとしたイメージの前者と比べて、原題の方は冷静な響きを持っていますね。よく思うのですが、海外の作品(本にしろ映画にしろ音楽にしろ)のタイトルを日本語らしく翻訳した結果として意図せざるイメージを受取り手の心に惹起しまっているケースがあります。なんというか、勿体無い。

夜と霧 新版

夜と霧 新版

受験知識としてこの本のタイトルだけは知ってましたが、上記のとおりの暗いイメージに心が惹かれず、これまで手にとることのなかった本です。が、実際のところ中身の記述・筆致はいたって冷静なもので、原題のとおりあくまでも心理学者として経験したナチスドイツの強制収容所とそこに収容された人々について綴られています。
幸福とは正反対といっていい極限状態の中で、人間が生きるということについて生々しい記述が多くされていて示唆に富む一冊ですが、今の自分が引き込まれた一文はこんなものでした。

自分を待っている仕事や愛する人間に対する責任を自覚した人間は、生きることから降りられない。まさに、自分が「なぜ」存在するのかを知っているので、ほとんどあらゆる「どのように」にも耐えられるのだ。

精神科医である著者が、絶望のために打ちひしがれ自殺を考える人々を前にして、異国で帰りを待つ子どもたちや完成されることを待っているしごと 仕事のことを思い起こして生き抜こうと話を
する場面です。